茨木市
文化財愛護会
令和6年度 第3回 ぶらり見学会(令和7年1月23日実施)
<ぶらり見学会 今城塚古代歴史館と芥川宿散策>
見学コース
JR摂津富田駅集合→今城塚古代歴史館→今城塚古墳→芥川廃寺跡(素盞嗚尊神社)→島上郡衙跡→清福寺太子堂→芥川橋→金比羅灯籠→教宗寺→一里塚→脇本陣→阪急高槻百貨店前解散
大寒を過ぎたばかりとは思えない暖かな日差しのなか、高槻の古代から江戸時代までの史跡を巡りました。古代山陽道から西国街道へと姿を変え、千数百年もの長い時間、多くの人々や文化の行き交った道。そんな道に沿って点在する史跡を訪れました。
JR摂津富田駅北口で集合。阪急高槻市駅行の高槻市バスで古代歴史館前まで。途中、ウイークデーにもかかわらず、結構多くのお客さんの乗り降りがありました。無料パス があるとかで、市民の足になってるんや。
今城塚古代歴史館と今城塚古墳
古代歴史館に到着
ボランティアガイドの伊藤さんは後藤会長とは旧知の間柄。「みなさん歴史にはお詳しいので…」と丁寧な説明をしていただきました。
祭祀場の埴輪
復元された石棺
家形埴輪や武人、犬や猪などの形象埴輪、復元された石棺などを展示。日本最大の家形埴輪は現在貸し出し中。ほかにも貸し出された埴輪があり、今城塚古墳出土の埴輪は貴重な文化財ということでしょう。
阿武山古墳の展示前ではみんな興味津々。
茨木市民はみんな「阿武山は茨木の山だ」と思っています。
古代歴史館から今城塚古墳へ。おだやかな日差しの中、小さな子どもさんを連れたお母さんがチラホラ。古代の空気を吸いながら日光浴という最高の環境。高槻市民は幸せやなあ~
まずはテラスから古墳の全景を見渡しました。大きすぎてようわからん…
おお! でかいな〜 さすが大王の古墳や
復元された埴輪の馬や水鳥が並ぶところ
埴輪祭祀場で記念写真
祭祀場の埴輪列を復元。大王の死後、ここで祭祀が行われたといいます。「本物の埴輪は低温で焼かれていたからもろい。復元し た埴輪は信楽焼きとか有田焼きですわ。叩いたらカンカンいいまっしゃろ? 陶器でっさかい。馬は小さい子どもさんやったら乗れますよ」と解説あり。
内濠を渡り、帽子を取って一礼してから墳丘へ登りました。ハイキングできる天皇陵は日本唯一かも?
ここがこの古墳の中心。戦国時代に城として使われ、慶長大地震(慶長元年=文禄5(1596)年)で墳丘部の多くが崩れてしまった。この後円部の中心も3、4m低くなっているという。元禄時代、幕府の天皇陵治定・修陵事業のときに、ここは大きく損傷していたことで、陵墓指定からもれたのだろう。この時に継体天皇陵とされなかったために、今城塚古墳は発掘調査され、多くの重要な歴史的事実と貴重な文化財を手にすることができた。
古代歴史館と今城塚古墳公園でじっくり勉強したので、伊藤さんにお礼を言って、芥川廃寺跡へ急ぎます。
芥川廃寺跡
回廊跡はこのあたり
これが素盞嗚尊神社でっか
芥川廃寺跡に素盞嗚尊神社が建っている。
郡衙と郡寺は一対になっているという。古代では政治と宗教が一体であるように、お寺も大学のようなもの。このあたりは嶋上郡の政治と文化の中心地。
境内の手水鉢が塔心礎?
芥川廃寺の塔心礎は手水鉢に転用されているらしい。
写真に書き加えた赤丸のところが円形にへこんだ柱穴。柱穴が二つあるのは再建されたからだというけど、ホンマかな?
芥川廃寺の塔心礎には舎利容器を納める場所がないのか…
ほかの建物の柱の礎石ちゃう?
嶋上郡衙跡
ホンマはもっと大きいんですわ〜
次に訪ねたのは嶋上郡衙跡。
この郡衙跡は三分の一スケールで示されています。(高槻市HPによる)
古代の郡衙は縦横3倍の広さの土地に建物が並んでいました。
清福寺の太子堂
江戸時代の中頃、茨木の福井大工組から分かれた清福寺大工組が信仰した太子堂。聖徳太子は日本最初の寺院「四天王寺」の工事施主。そこから大工技術の始祖と尊崇され、大工(番匠)の守り神として信仰されてきました。
当時の大工は、幕府の御用を務める代わりに、一部年貢を免除(大工高)されました。普段は民家や寺社の仕事をしていたので、準公務員みたいなもの。
芥川橋を渡って芥川宿へ
芥川橋のたもとにはいくつも地蔵堂がありました。お地蔵さんはこの世とあの世の境を守る仏様。村や町の境界にはお地蔵さんが祀られる。芥川橋は何と何をへだてていたのか。
金毘羅灯籠
金毘羅さんの道標は大変珍しい・・・
金毘羅さんの灯籠が道標になっていて「ここより道のり六十三里半」と書かれた距離も正確。西国街道は金毘羅参りの人々も多く行き交ったのでしょう。
神恵山 教宗寺
浄土真宗の古刹教宗寺。境内に蛭子(えびす)と大黒を祀る市蛭子大神宮がある。この寺の主、田淵家の屋敷内にあったもの。芥川が町として発展する元になった「市」の守り神だったのだろう。
教宗寺の石槽も有名
芥川の一里塚
一里塚に祠が祀られているのは、なにか人々の思いが込められているのだろうか。耳原の一里塚跡にもかつて祠があったが、今はどうなってしまった?
道をへだてた向かいに三角の空き地がある。一対になった一里塚のもう一つがここにあったのだろう。
久保家住宅
西国街道芥川宿の脇本陣、久保家住宅。芥川宿の本陣はすでになく、脇本陣のみが残っている。
多くの古文書とともに、当時のままの姿で残されている茨木の郡山宿本陣は、どんなに貴重な存在か…今さらながら思う。
高槻阪急デパート前で解散。今回は後藤会長の案内で、古代山陽道と西国街道の「道の記憶」をたどりました。参加者は8人と少数精鋭でしたが、道に沿って残された多くの歴史を学びました。
令和6年度 第2回 ぶらり見学会(令和6年10月6日実施)
<ぶらり見学会 山科、四宮散策
ー平安の古刹と蝉丸・人康(さねやす)親王伝承の地ー>
見学コース
JR 山科駅前集合→安祥寺→山科疏水沿いの道→毘沙門堂→山科聖天→諸羽(もろは)神社→徳林庵(山科地蔵)→十禅寺→人康親王宮内庁墓→四宮大明神→旧東海道を通り JR 山科駅(解散)
前回(9月 26日)見学会から 10日目という過密日程にもかかわらず 20人の参加者がありました。もう少し涼しくなっているはずでしたが、真夏日の1日でした。それでも日陰にときおり吹く風はさわやかでした。
摂関政治の基礎が築かれた平安時代のはじめ、国家の支援のもと創建された安祥寺。 同時代、琵琶の名手で若くして盲目となった人康(さねやす)親王ゆかりの十禅寺や四宮大明神を巡りました。
JR山科駅前に集合、コース説明を聞く
JR線路下の通路から山科駅の北へ
吉祥山 安祥寺に到着
仁明天皇(在位 833〜850)の女御藤原順子が願主となり、国家の援助のもと創建。かつては上寺・下寺があり、寺域は 2万平方メートル、塔頭寺院(子院)は 700ヶ所もあったという。
朝廷の力が衰えるとともに寺も徐々に衰微し、ついには応仁の乱により廃寺同然になってしまった。のちに徳川家康の庇護をうけ、寺地の一部に現在の諸堂を再建した。
安祥寺観音堂
本尊十一面観音菩薩立像は重要文化財。
榧(かや)の一木造りで像高 2.5m、奈良時代の風情を残す古仏。
四天王立像、不動明王立像とともに、安祥寺復興の命を下した家康像が祀られている。
大師堂
真言密教の法統(安祥寺流)をつぐので、境内には弘法大師を祀る大師堂がある。
境内には、安祥寺の守護神を祀る青龍社のほか、地蔵堂や鐘楼などが建ち並ぶ。
地蔵堂
青龍社
礎石が残る多宝塔跡
社の左右の苔は雌雄の龍を描く
国宝五智如来は多宝塔(明治 39年焼失)に安置されていたが、京都国立博物館に寄託されていて難を逃れた。今年、生誕1250年を記念して、奈良国立博物館で行われた「空海展」のメイン展示に…
*五智如来=密教の五つの知恵を大日如来、不空成就如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来にあてはめたもの。画像は奈良国立博物館HPより
山科疏水に沿って毘沙門堂へ
南北に流れる安祥寺川の上を山科疏水が流れていました。
ジョギングをする人、バギーを押す若い夫婦…木陰の水路は絶好の散策路。
安祥寺川 の上に煉瓦造のアーチ橋を架けて山科疏水を立体交差させている。
毘沙門通の道標
毘沙門堂は、もとは京都御所の北、出雲路橋付近にあったことから「出雲寺」とも呼ばれとたという。江戸時代、天海和尚の再建になるが、後に第 111代後西天皇の皇子が入寺され、門跡寺院となった。本殿、宸殿、霊殿をまわることができ、狩野派のふすま絵や円山応挙の鯉の板戸を見ることができる。春の桜、秋の紅葉の名所としても有名。
毘沙門堂に掲げられた出雲寺の額
毘沙門堂への階段
毘沙門堂晩翠園
見どころの多い毘沙門堂だが、ほとんど撮影は禁止。庭園「晩翠園」の様子。
山科聖天
山道の参道を通って山科聖天へ。ここは毘沙門堂門跡の塔頭寺院とか…
聖天さんのご本尊大聖歓喜天は完全秘仏で、拝観することはできませんでした。写真はお堂の前の大根が描かれた提灯。
毘沙門通りをくだって、再び山科疏水へ。
山科疏水にこんなトンネルが…
山科が一望できるところ。この家並みから往時の風景を思い浮かべるのはちょっと難しい。
次の目的地は諸羽神社。疎水沿いの道から少し下って、神社の参道へ。参道そばの茂みの中に「人康親王山荘跡」の碑。ここから次々と人康親王の伝承を訪ねることに…
諸羽神社の鳥居
御祭神は天児屋根命と天太玉命。天照大神の岩戸隠れで、その方策の吉凶を占った二人の神様を祀ることから「諸羽」神社というらしい。
天児屋根命は藤原氏の、天太玉命は忌部氏の祖先神。大化前代に互いに競い合った有力氏族が同じ神社に祀られている ??
諸羽神社磐座・琵琶石
磐座(いわくら)は、 石に神が依りつくという日本人の信仰の原点。出雲国の勢力範囲に多く見られるが…
琵琶石はやっぱり人康親王の伝承から?
「蝉丸と人康親王は2人とも盲目の琵琶の名手。しかも蝉丸は醍醐天皇の第四王子とも伝えられ、人康親王は仁明天皇の第四王子。お二人のイメージが重なり合って…」という案内人のお話を聞く参加者。
徳林庵・山科地蔵
本来は臨済宗南禅寺のお寺だが、京都六地蔵として有名。
前の道=旧東海道に面した手水は、かつて往来の牛馬の水飲場として使われていたという。その石組に「宰領中」とあるのは運送業者の頭領達が寄進したという事だろう。
「日通」のマークは日本通運がパクった?「リスペクトの表現」と受け取りましょう。
旧東海道に面している徳林庵標柱
「南無地蔵菩薩」
「伏見六ぢざう」と
彫られているが、
今6文字目は地面の下
山科地蔵の裏手に回り込むと、ひっそりと人康親王・蝉丸の供養 塔がある。
平安時代前期の歌人蝉丸法師の出自がはっきりしないことから、同一人物とする説もある。歴史のロマン…
人康親王・蝉丸供養塔
隣の小さな道標は人康親王陵墓への案内表示。
十禅寺
人康親王開基とされる寺。大きな寺院であったが、今残っているのはこのお堂だけ。
このあたり一帯が「四宮」といわれるのは、人康親王が仁明天皇の第四皇子であったからとされる。また、この近辺に御所があったともいわれている。
十禅寺から少し行ったところの細い道に入っていくと人康親王宮内庁墓へ
人康親王のお墓(宝篋印塔)
最後は四宮大明神。案内人が家と家のすき間のようなところに入って行くから、ついて行くとこの細い路地の先、JRの線路の手前に空間が広がって…
琵琶琴元祖四宮大明神の社が鎮座
昔は遠くからでも見えたのだろうが、今は外から様子はうかがえない。案内無しでたどり着くのはまず不可能では?
眼病を患った人康親王が、その悔しさに泣きながら足をこすると泉が湧いたとされる御足摺池(おあしずりいけ)。
この四宮泉水町広場には、ほかに役行者の祠や地蔵の祠も祀られている。
四宮大明神から、旧東海道を通り、JR山科駅へと帰り道。
五月雨解散になってしまいましたが、みなさん、お疲れさまでした。
平安初期創建の寺社、伝承が育んできた旧跡、さらには明治初期の大工事で琵琶湖から水を引いた山科疎水…
歴史豊かな山科で、盛りだくさんの史蹟を巡り歩いた初秋の午後でした。
皆さんお疲れさまでした。
令和6年度 第1回 ぶらり見学会(令和6年9月26日実施)
<ぶらり見学会 高槻・古曽部の里を歩く>
見学コース
高槻阪急デパート集合→上宮天満宮→野見神社→昼神車塚古墳→伊勢寺→日吉神社
→能因法師塚→文塚→不老水→古曽部焼窯跡→花の井(解散)
9月も終わりというのに真夏の暑さ!! 熊本では 38 度になるとか… 冬は例年どおりの寒さで、雪は多いらしい。
日本の四季はどこへいったのでしょう。
高槻阪急デパート前に集合
午後1時30分、さあ出発!
ここが上宮天満宮か
この天神さんは太宰府天満宮についで二番目に古いらしい。
境内地は、天神山とも日神山(ひるがみやま)とも呼ばれ、昼神車塚古墳や野見宿禰塚古墳、北端には天神山遺跡など、歴史豊かな場所。
階段を上り坂を上って…
天神さんの拝殿
現在の拝殿は、明暦 2年(1656)、高槻藩主永井直清の造営という。
豊臣秀吉によって建てられた旧本殿は平成8年、放火によって失われ、 現在は神社の竹林資源を活かした「竹の本殿」に。
式内社 野身神社
天神さん正面の階段を上がってすぐのところに、野身神社が鎮座します。
塚の前にお社があり、標柱には「式内 野身神社 并 野見宿禰墳」と書かれています。
このあたりはかつて「濃味郷」(『倭名類聚抄』)といわれ、土師氏の祖先として野見宿禰を祀ったとされています。
昼神車塚古墳
昼神車塚古墳は府道枚方亀岡線のバイパス道が下を貫通している。その工事の際に調査が行われ、 6 世紀中頃までに作られた前方後円墳ということが分かっています。解説板によれば、「車塚」とは前方後円墳のことだそうです。
解説版があるのは「前方」のところ
トンネルの 上が
古墳だった!
車塚古墳から伊勢寺へ
また登るの…
伊勢寺にも階段
寺伝によれば、三十六歌仙のひとりで平安時代の女流歌人伊勢姫が隠棲し、この地で亡くなったことから、この寺を建立したといわれています。
伊勢廟堂
横には亀の上に立派な石碑が…
伊勢廟堂は寛永年間に造営され、慶安 4年(1651)、高槻藩主永井直清は隣に林羅山起草の石碑を建てています。
ここからの眺めは絶景で、昔は淀川まで見通せたのだろうと思います。汗をかきながら登ってきた甲斐がありました 。
和田惟政の墓
同じ敷地の奥に和田惟政の墓がありました。
享保年間に高槻城改修時に発見され、ここに墓石を移したといわれている。
境内には、眺望のほか、歌碑や筆塚など見るべきものは多い。
日吉神社の鳥居に到達しましたぁ
暑さも最高潮。やっとの思いで日吉神社へ。
天正元年(1573)、荒木村重が織田信長から摂津支配を許されたときに、 近江の日吉神社を勧請し、慶長年間に再建されたという。
鳥居に掲げられた社号額は
連合艦隊司令長官 東郷平八郎の筆によるもの。
檜皮葺き、極彩色といわれる本殿は再建当時のままとされるが、外からは見ることができません…
写真、右の屋根は拝殿、左奥の屋根が本殿の覆い屋(さや堂)です。
文塚
不老水
能因法師の墳に向かう途中に、能因が和歌の原稿を埋めたとされる文塚、能因が不老不死を願って飲んだとされる不老水がありました。
不老水は今も澄んだ水が湧き出し、いかにも名水という感じ… ところが横には「飲んではいけません」の無粋な表示。健康に悪い?
能因法師の墳
盛り土のうえには大きな樫の木。いかにも墳墓という感じ。
能因法師は、歌人伊勢姫の 100年のち、出家後に伊勢を慕い、古曽部入道と称してこの地に住まった。
墳の前には、やはり永井直清が慶安 2年(1649)に建てた石碑が残されています。この碑文も林羅山の撰ということです。ご領主さまは地域の文化財を大切に思っていたということでしょう。
これが能因法師の塚でっか
伊勢姫を慕って古曾部に住まいした能因法師、能因法師を慕い旅した松尾芭蕉…
古人をの足跡を訪ねる私たちもそんな風流人の一人?
能因法師のこと、高槻藩主永井直清のことetc. いろんな話が聞けました。
ひそかにたたずむ古曾部焼窯跡の碑
能因法師の墳から少し歩いた民家の敷地内に、ひっそりとたたずむ古曽部焼窯跡の碑。
この家の主は、ささやかな石碑を大切に守っておられる。高槻市民は立派や〜
江戸時代の終わりから明治にかけて雅趣あふれる茶器を制作し、京大阪の茶人等に愛された。 また「くらわんか船」で使われた庶民の器も生産した。
このお家の塀には説明板もありました。
花乃井
民家の前にある花の井…ここも高槻市民の協力のたまもの。
花の井は能因井、山下水とも呼ばれます。
能因法師はこの井戸の水面に映る我が姿をこんな歌に詠みました。
あしひきの山下水に影見れば 眉しろたへにわれ老いにけり
知らん間にこんな爺むさい顔になってたんや〜 お気持ちようわかります。
今日はここまでですわ…
みなさん、暑いなかお疲れさまでした。
地図で見たら、わずかな距離でしたが、夏と変わらぬ暑さと思わぬアップダウンに少々苦戦。参加者全員なんとか歩ききりました。
案内人に感謝の拍手を贈って解散となりました。
参加者は 17 人でした。
令和5年度 第3回 ぶらり見学会(令和6年3月27日実施)
<ぶらり見学会 蝉丸・一遍・蓮如の伝承の地を歩く>
見学コース
京阪「大谷」駅→逢坂山関跡→関蝉丸神社・分社→「上栄町」駅→関蝉丸神社・下社
長安寺(関寺跡地) 牛塔・小野小町塚・超一供養塔→近松寺→犬塚の欅→本長寺
近松別院→大津祭曳山展示館→大津事件の碑→大津別院→大津教会→JR「大津」解散
雨が続いた3月、この日は晴天に恵まれました。愛護会会員の皆様の日頃の行いのご利益でしょうか。快適な日差しとそよ風の中、山科から大津へ、多くの伝承を残す道を歩きました。
JR「山科」駅改札に集合、目の前の京阪「山科」駅から京阪に乗車。車両は急勾配の線路を進み、逢坂の関直近の「大谷」駅へ。この路線の車両は特別製。傾いたホームのベンチも特別製。
旧東海道を逢坂の関へと向かう。かつては多くの人が行き交い、大津絵を売る店も、走り井餅売る店も賑わっていたところ。今、ここには鰻料理の有名店「かねよ」があり、食欲をそそる香りがほのかにただよってきます。「日本一のうなぎ」を味わうのはまたの機会に。
逢坂山関址の碑に到着。「逢坂の関」は平安京にもっとも近い重要な関所であり、枕草子にも登場して広く知られるところ。しかし、遺跡は発見されておらず、とりあえずこの場所を関址としたとのこと。
清少納言の歌の碑もここに。その横には三条右大臣の歌碑、蝉丸の歌碑が並んでいました。
次の電車までにちょっと時間があって、案内人より「元気な方は上までどうぞ」と声が掛かりました。この蝉丸神社は分社で江戸期に勧請されたもの。
石段の 下には「車石」が置かれていました。江戸時代、土道だったこの峠は雨が降ってぬかるむと車輪が泥に沈んで通行困難に。それを防ぐために溝のついた石を並べ牛車の難所越えを助けています。
電車で次は「上栄町」駅。車窓からも見えた関蝉丸神社・下社へ。鳥居の直前が踏切。重要文化財の「時雨灯籠」もあります。境内の直前を通過する電車を見守る参加の皆さん。蝉丸さんは「坊主めくり」で覚えました…ここでは「関の神」とともに祀られています。
かつて大きな力を持っていた「関寺」の跡地へ。ゆかりの「牛塔」を前にしてその大きさにびっくり。恵心僧都が関寺の復興を発願。資材運搬に携わった牛が迦葉仏(釈尊の一世代前の仏さま)の化身だという夢告があり、貴族も含めて多くの人々が結縁を願って参詣したとか。その牛の埋葬地に藤原頼通が建立したものがこの石塔。関寺では一遍上人が踊念仏を興行したという歴史もあり、現在、跡地にある時宗寺院「長安寺」につながります。
「近松(ごんしょう)寺」へ。三井寺の五別所の一つ。現在は江戸期の建物を残すだけですが、中世には関寺、関蝉丸神社を支配する力がありました。「高観音」の別名はここから大津市街と琵琶湖を見晴らして実感。
次は「犬塚」。毒殺されそうになった浄土真宗中興の祖、蓮如上人を救うべく、庭 から駆け上がって毒入り料理を食べ「口にされてはいけません!」と命を捧げて教えた犬がここに埋葬されました。そこに植えられた欅がこんな巨木になっています。「花さか爺」の昔話を思い出しますが、この欅で臼を作ったら、つく度に大判小判がザクザク…ではなくて「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくるのでしょう。
次は法華宗寺院の「本長寺」天領だった大津の代官の墓が残ります。この後、いろいろなお寺・教会を歴訪。東西本願寺の別院。キリスト教もイギリス国教会の教会とプロテスタントの教会と…
日本聖公会大津聖マリア教会
日本基督教団大津教会
なんでもなさそうな所を指さす案内人。ここが「大津事件の現場」でした。ロシア皇太子ニコライが警 備中の津田三蔵巡査に切りつけられた大事件。
強大国ロシアとの関係を考える政府に法治国家日本の「司法権の独立」を主張した大審院長児島惟謙…明治日本を揺るがした大事件がここで起こっていたのでした。
大津の街歩き途中、休憩も兼ねて訪問した「大津祭曳山展示館」。400年の歴史を持つ大津祭ではこのような曳山が市内を巡行します。見上げているのは実物大の模型。絢爛豪華さに圧倒されました。
京都まではよく訪ねるけれど、山科・大津はご縁が薄かった。多くの知見を得た春の1日でした。
令和5年度 第2回 ぶらり見学会(令和6年1月26日実施)
ぶらり見学会 高槻しろあと歴史館見学と高槻散策
見学コース
阪急高槻市駅集合―八丁松原史跡公園ーしろあと歴史館ー市民の森城跡公園―歴史民俗資料館ー高山右近天主堂跡ー野見神社・永井神社ー高山右近記念聖堂(高槻カトリック教会)ー川ノ町ー阪急高槻市駅解散
数日前の寒さも少しは和らぎましたが、ヤッパリ寒い!心のサプリメントは好奇心、
体のサプリメントは歩くこと・・・
頭も体も楽しみながら使って・・・ムダ話も大事ですよ!
阪急高槻市駅改札前で集合。
JR京都線が線路トラブルで運転見合わせとか。
阪急で振替輸送をしていて、やや混雑しました。阪急集合で正解でした。
がんばって歩きましょう!
高槻城の表玄関は京口。西国街道と京口をつなげるのが八丁松原。
高槻城の六つの出入口で最も重要な場所といわれ、今も京口町の名前が残っています。
八丁松原の碑
八丁松原から城下に向かう人が見れば、
この道標は左右が反対。道路整備の時に
置き方を間違えたのでしょう。
大阪国道事務所西の道標
円城寺東の道標は、まさに京口にあって、道はクランク状に曲がっていて向こうが見通せない遠見遮断となっています。
円城寺東の道標からまっすぐ南へ、三の丸の東南隅に八幡町の道標があります。
ここから城外になり、茨木や総持寺、淀川の船着場などが記され、城下から伏見や大阪に向かう旅人の目印になっています。
円城寺東の道標(京口)
八幡町の道標
道標を見ながら歩いている間に、しろあと歴史館に到着。
初めての方、何度も来られた方、さまざま。
なんせ近場でっさかい。
高槻市立しろあと歴史館
玄関を入るとすぐに「将棋のまち高槻」の旗が・・・
関西将棋会館が高槻に来るので「将棋のまち」になるんやなあー
藤井聡太名人、羽生善治会長の色紙や扇子が飾られていました。
しろあと歴史館では、学芸員の方から高槻城の歴史についてお話をしていただきました。
かつては「摂津茨木」が北摂の中心でしたが、高槻に城ができてからは、永井氏の城下町として高槻が栄えてきたことが実感できました。
お話のあと、二手に分かれてボランティアさんの解説で館内を見学しました。
これが高槻城かいな-
高槻城の復元模型の前で
見学を終え、城跡公園へ。
広い公園の中には、旧陸軍工兵連隊宿舎跡(営門)が保存されていました。
あ、立駐所の中に人影が・・・
工兵連隊営門跡
公園内には江戸中期とされる笹井家住宅が移築され、歴史民俗資料館として寒天道具や民具、商業資料などが展示されています。
歴史民俗資料館の外観
城跡公園は、築山や池、橋を巡って回遊できる散策路が設けられている。
歴史民俗資料館のほかにも、高槻城跡の碑や高山右近像などが配され、市民が郷土の歴史に誇りを持てるように工夫されている。
城跡公園の高山右近像
高山右近天主教会堂跡を見て、野見神社・永井神社へ
ここが高槻城主永井氏を祀る永井神社ですう
高槻藩士で漢詩人の藤井竹外邸跡、右近ゆかりの高槻カソリック教会を経て阪急高槻市駅へ
途中、道の真ん中に水路のある特殊な町並みの川之町を通る。普通、両側町(町割り)では町の周囲に水路(背割り水路)を造る。何か特別の理由があったのだろうか・・・
藤井竹外邸跡 ~そろそろ寒なってきたなあ
川ノ町の水路
みなさん、寒いなかお疲れさまでした。
栄養と教養は必要でっせー
アップダウンはなかったけれど、12000歩ほど歩きました。
参加者は13人でした。
令和5年度 第1回 ぶらり見学会(令和5年10月21日実施)
ぶらり見学会 総持寺・西河原・太田 伝承の地を訪ねて
見学コース
JR総持寺改札前→西河原公民館→薬王寺→姫塚→総持寺奥の院→疣水磯良神社→西河原交差点(宿直草伝承地)→新屋坐天照御魂神社→太田太郎碑・太田城跡
昨日からにわかに寒くなり、11月中旬の気温とか・・・こうも温度変化が激しいと体調管理が大変。
出足のところでにわか雨に会いましたが、ひさしぶりのぶらり見学会、元気に歩きました。
JR総持寺駅 改札前で
西河原・薬師堂(福満寺)横の公民館で
本会理事、木村さんのデジタル紙芝居を鑑賞。
『平家物語』から「判官都落ち」のお話、
説話集『宿直草』から「神社の森の一つ橋」のお話。楽しい話にみんな大笑い・・・チョット
ここには書けません。
明治9年に造られたガード(避溢橋)が残る
JR総持寺改札前で集合。まずまずの天気。
がんばって歩きましょう!
西河原公民館
木村さん特製『薬王寺縁起』
これが巡礼道か(後に見えるのは総持寺の北門)
特別に薬師堂の中を見せてもらい、薬師如来を拝む。
『薬王寺縁起』によれば、総持寺を開創した藤原山陰の娘さんが安産をこの薬師様に祈ったことから、安産の薬師様として有名。
薬王寺の開基伝承では、行基四十九院のひとつとされ、行基菩薩のお像も祀られている。
おいしいお饅頭とお茶を振る舞っていただき、栄養を補給して、さあ出発!
妙雲山薬王寺
薬師堂の薬師如来座像
中に入ると供養塔がある
住宅街を歩いていると、その間からこんもりとした丘が見える。
藤原山陰卿の奥方の供養塔とされる五輪塔が祀られている。「寛永21年2月4日」「山陰卿御台」と刻まれているらしい。(天坊幸彦『三島郡の史跡と名勝』)
少し前までは中に入ることができたが、いまはできない。
姫 塚
明治9年にできた踏切をわたり、総持寺奥の院へ
藤原山陰の供養塔
山陰中納言御廟
昭和14~18年ころ、安威川茨木川の合流や安威川の直流化という大土木工事が行われたときに、三島小学校の北東あたりから大量の土を運んだという。
その断崖を見ながら疣水磯良神社へ・・・
いぼ水さんは、今は西側が正面のようになっているが、本当は南。ホンマの正面から鳥居をくぐる。
宮司さんの特別のはからいで「玉の井」の霊泉を拝見させていただいた。
玉之井神の祠(左)と玉の井の社(右)
ここが若い娘さんが行き倒れの死人の上を渡ったちゅう溝かいなあ。
まあ、伝承でっさかい・・・
宿直草伝承地の水路を見る
延喜式内社 新屋神社の境内は例の溝からすぐ横にある。
なるほど「神社の森の一つ橋」や、と納得。
*社号標石
元文年間(1736-1740)、並河誠所は『摂津志』編纂時に式内社の場所を調べ、その顕彰のために標石を建立。「菅廣房」と刻まれているのは出資者らしい。
これが社号標石か(新屋坐天照御魂神社境内)
『平家物語』によれば、太田頼基は、文治2年(1186)、源義経と「摂州川原津」において戦ったとある。
太田の西が「川原津」でこの石塔は「太田太郎丸の墓」だと言い伝えられた。
この石塔は、表には梵字の「ह(カ)」と「地蔵菩薩」が刻まれ、裏には「太田野太郎丸」とある。
このあたりには「城の前」「城の口」など、城にかかわる地名が残り、太田城はこの付近にあったというが、城の遺構などは見つかっていない。
太田城はどこにあったのだろう?
裏、なんて書いたある?(太田太郎頼基供養碑)
皆さん、お疲れさまでした(太田太郎供養碑前)
参加者は9人と少数でしたが、普段は拝見できない貴重な仏像や霊泉玉の井など、見所の多い充実したぶらり見学会でした。
後藤会長の挨拶で今日の〆、お疲れさまでした。
[追記]
1970年代、デジタル時代の先駆けとなるICチップを使った世界初の計算機を、米国インテル社と共同で開発した日本計算機という会社が三島小学校の南にありました。
茨木がシリコンバレーになりそこねた話、残念ながらができませんでした。
令和4年度 第4回 ぶらり見学会 (令和5年3月28日実施)
ぶらり見学会 東山祇園散策 ー日本浄土教発祥の地、法然、親鸞の故地を歩くー
見学コース
阪急「河原町」→目疾地蔵→建仁寺→安井金比羅宮→八坂庚申堂→八坂神社
→円山公園→安養寺→知恩院→青蓮院→明智光秀首塚→出雲阿国像
満開の桜、澄み切った青空、本年度最後のぶらり見学会は、すばらしい散歩日和に恵まれました。久しぶりに愛護会の「案内旗」も登場。花見を楽しみながら、誰もが知っている観光地の「知る人ぞ知る歴史」を学びました。
阪急「河原町」。30名近い参加者が集まりました。
会長から「みなさんこの旗を目印についてきてください」と案内。
四条大橋を渡って見学会がスタート。
目疾(めやみ)地蔵の仲源寺へ。洪水から救う「雨止(あめやみ)地 蔵」として地蔵尊が祀られたのが始まりと伝えます。「入ったのは初めて」という会員も。
立派な地蔵菩薩像を拝観し、花見小路を南へ。
建仁寺
強大な権力を誇る祇園社の勢力圏に、鎌倉二代将軍源頼家によって禅宗寺院が建立された。それは歴史的大事件だった! 案内人の説明に聞き入る参加者。
「風神雷神図屏風」など寺宝で知られる寺院の日本史上の意味に気づきました。
続いて、日本一有名な
「縁切りパワースポット」へ
安井金比羅宮
願いを書いた「形代」が貼りつけられた「縁切り縁結び碑(いし)」。うがたれた丸いトンネルをくぐると悪縁が切れ良縁が結ばれるという。この日も順番待ちの人が列を作っていました。
境内の桜並木を行く。
八坂庚申堂
日本三庚申の一つ。申(さる)→猿を神使とする信仰につながり、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が有名です。ここも人気スポットで老若男女・多民族のお参りの方でいっぱい。
カラフルな「くくり猿」に願いを書いて奉納。境内のいたるところに奉納されていました。八坂の塔を見て北へ。
知らない人のいない八坂神社。しかし、皆さんご存じの西門は脇の門。神社南側、本来の参道である下河原通を歩いて、正面玄関の南楼門へ。
石の鳥居をくぐると、南楼門。境内は南楼門、舞殿、本殿が南北に並んでいます。
本殿にお参りした後、末社巡り。八坂神社は末社・摂社も重要文化財が目白押し。様々な願いに応じる神々が祀られていました。
五穀豊穣から芸能上達、歯ぎしり寝言止めまでご利益は幅広いもの。ここは美容祈願の「美御前(うつくしごぜん)社」
花見客がいっぱい。屋台が並ぶ円山公園を北へ抜ける。
坂本龍馬・中岡慎太郎の像の前で人数確認。
人混みを離れて「日本浄土教発祥の地」へ。
安養寺
法然上人が専修念仏の仏法を説かれた「吉水草庵」。名前は聞いていたけれど、ここにあったのか…
1181年親鸞聖人は比叡山へ入られたと伝え、法然上人が回心されて山を出られるのが1175年。比叡山で学僧、法然房源空上人とすれ違った親鸞聖人が、浄土門の師、法然上人と出会われたのが京都東山の吉水。
石段を登ってふり返ると京都市街が一望に。
わずかな高低差でも、ここは吹く風が涼しい。
安養寺は法然・親鸞の故地でありつつ一遍上人を祖とする時宗の寺院。本堂をお借りして、案内人から日本浄土教の祖師方について、読書案内をまじえた紹介がありました。
知恩院鐘楼
安養寺を出てすぐのところに、除夜の鐘で有名な鐘楼。圧倒される鐘の大きさは写真では伝わらない。
知恩院の一番高いところから、大伽藍の建ち並ぶ境内へ。
御影堂の前に到着
脚力にゆとりがある方は、法然上人御廟へどうぞ…
桜の木の向こうに見える長い石段を登る。
休憩所「泰平亭」でくつろぐ参加者も。
知恩院の国宝三門
鐘楼から下って三門へ至る知恩院参拝。日本最大の楼門を見上げて「見事な風景やな〜」と写真に。
ここで既に4時前。
青蓮院の拝観は次回のお楽しみにして、大谷本願寺故地・青蓮院前を通過。
明智光秀首塚へ
狭い道を入ったところ。京都の人々の敗者への哀惜の思いを伝えます。そばにある和菓子店は古くから「光秀饅頭」を販売。残念ながらこの日は定休日。
四条大橋東北の出雲阿国像
今日の見学会はここで無事終了。
歴史学習と花見とウォーキング。春の午後、楽しい時間を満喫しました。
令和4年度 第3回 ぶらり見学会 (令和5年2月21日実施)
ぶらり見学会ー天王寺七坂を歩くー
見学コース
JR天王寺駅→堀越神社→一心寺→逢坂→安居神社→天神坂→清水寺→清水坂
→愛染坂→大江神社→勝鬘院愛染堂→家隆塚→口縄坂→源聖寺坂→生国魂神社
→真言坂→谷町九丁目駅
午後1時、天王寺駅改札前で集合。平日にもかかわらず、けっこう人出も多い。
寒い一日でしたが、坂また坂、がんばりました。寒風にも負けず、トシにも負けず・・・
さあ出発や-
熊野詣の出発点、九十九王子一番目の窪津王子が祀られている。
もとは天満橋近くの坐摩(いかすり)神社行宮跡あたりにあったが、その後四天王寺西門の近くに熊野神社として祀られ、大正4年(1915)に現在地に移されたという。
窪津王子が祀られている堀越神社
大坂の陣で徳川家康や真田幸村が陣を敷いた要衝、茶臼山公園を経て、まずは逢坂へ。
まだまだ余裕綽々(しゃくしゃく)ですわ。
ここが大坂の陣で有名な茶臼山かぁ-
一心寺の仁王像には驚きました!!
あらゆる宗派を受け入れる一心寺の寛容さの象徴やろか・・・
このあたりで後白河法皇や法然上人が、海に沈む夕日を眺めて極楽浄土を願う「日想観(にっそうかん)」を修したといわれる。
かつての大阪湾は大きく東に入り込み、
海に面した部分は波に削られ(波食崖)、
大江岸と呼ばれた。大江岸の南半分、
四天王寺周辺は日想観の聖地とされた。
天王寺七坂は海岸部分にできた新しい町と
上町台地をつなぐ坂。
一心寺の仁王さん奇抜や
安居(や すい)神社は、左遷された菅原道真が瀬戸内海から太宰府に向かう途中、ここで休んだとされる。
かつては「安居の清水」が湧くオアシス。傷心の道真やここで最期を迎えた真田幸村を癒やしたのかも・・・
真田幸村最後の地 安居神社
天神坂
天神坂、清水坂をのぼり清水寺へ。
清水坂
清水寺は京都の清水寺を模して建てられ、北・西・南が断崖絶壁の高台にある。まさに日想観には絶好の立地。
林立するビルがなければ、大阪湾から淡路島も望めたという。
ここから眺める夕陽は極楽浄土そのものに見えただろう。
清水寺の「玉出の滝」
愛染坂から「夕陽ヶ丘」と称される夕日の名勝、大江神社を経て勝鬘院愛染堂へ。
慶長2年(1597)、豊臣秀吉再建の多宝塔は重要文化財。壮観、壮観。
愛染坂
勝鬘院(愛染堂)多宝塔
『新古今和歌集』撰者の一人藤原家隆の五輪塔、家隆(かりゅう)塚へ。
家隆の墓ともいわれるが、実は平民宰相 原敬(はらたかし)がここに設置したものという。
五輪塔自体は江戸時代の作らしい
(パンフレット『家隆塚』大阪夕陽丘ライオンズクラブ2022)
これが家隆塚ですぅ
口縄坂
源聖寺坂
南北に連なる上町台地を上下する天王寺七坂。
後藤会長の案内で、参加者は12人。
古代の大阪湾=茅渟(ちぬ)の海を身近に感じられた見学会でした。
蛇のようにうねっている口縄坂、
源聖寺の角から続く、なだらかな源聖寺坂を経て
生国魂神社へ
生国魂神社
令和4年度 第2回 ぶらり見学会(令和5年1月16日実施)
ぶらり見学会ーディープな資料館ー
皆さん、そろいましたか
正月気分も抜けて、寒さもほどほど、資料館のなかは暖かい。
後に見えるのは展示中の品々。「ちょっとむかしのいばらき展」の開会中で、館内のあちこちに黒電話やランプ、洗濯板・・・。羽釜やお櫃、飯ふご(保温のため藁で編んだ)は、三点で今の炊飯器。子供のころ見慣れたものばかり。ヒョットして私たちも展示の一環?
むかし使ってた物が・・・
2階の講習室に集合して、この資料館がつくられるきっかけとなった銅鐸の鋳型や東奈良遺跡の話を聞くことに・・・
まずは後藤会長からご挨拶
清水学芸員からは、銅鐸製造の技術が西アジアや中国大陸からどのように日本に伝わったかというお話を聞きました。
鋳型の形や鞴(ふいご)の送風管の形から、
それらが具体的にどのように使われたか。
実際に炉で青銅を溶かした話は興味深かった。鞴で空気を送るのは大変だったそうです。
歴史にも実験は必要です。
熱心に清水学芸員の話を聞く
お話しのあと、去年リニューアルされた1階展示室へ。
以前と同じ面積なのに、不思議なくらい広々とした感じに。
観客の導線や空間の区切り方に秘密があるようです。
これが重要文化財の銅鐸鋳型レプリカです
広々とした展示室
常設展示は、縄文以前から近代まで、
茨木の歴史を年代順に展示しています。
このほか、テーマ展示として江戸時代の水害や水争いの歴史を展示しています。
土蔵の説明板
資料館北側の史跡公園にある土蔵を特別に見学。
230年前の天明9年(1789)に造られたそうです。
これが土蔵です
リニューアルされた展示室で、しかも学芸員の解説付で
じっくりと見学しました。
あらためて郷土茨木の歴史を振り返る良い機会でした。
参加者は22人でした。
土蔵のなかには目くるめく農具が・・・
文化財資料館では去年3月31日に郷土資料室を開室。
『新修茨木市史』の史料調査で収集された古文書などが閲覧できます。
郷土史料室
令和4年度 第1回 ぶらり見学会 (令和4年10月17日実施)
茨木南部・さわらぎ郷を歩く…濱村を中心に
東奈良遺跡が有名なさわらぎ郷。近年、藤原鎌足の別宅「三島別業」の地としても注目を集めています。愛護会会員中井晃さんの案内で茨木川下流域を歩きました。
資料館の新展示見学から始まる盛りだくさんな見学会。地域に重層する歴史を学んでいます。
最初に資料館の清水学芸員の案内でリニューアルされた展示を見学。今日のコースに関係のあるところを解説していただきました。
銅鐸工房それぞれに個性、作風があり、東奈良で作られたものは、古い形式を守るスタイル。デザインや制作方法におおらかな「ゆるさ」もあって…。そんなお話を聞いて、銅鐸の作り手たちに親しみを増しました。
鎌足の別宅がここにあったという論拠となる出土物。
古代の煉瓦「塼(せん)」。発掘現場にはビルが建ちホルモン焼き屋さんも入店。鎌足が乙巳(いっし)の変の計画を考えた場所で、ビール飲みながら、どんな話をしましょうか?
古代史の上に現代の生活空間があります。
中井さんの案内で見学に出発。
雨は降ったり止んだり。本降りになることはありませんでした。
資料館裏に集められた道標から散策はスタート。
茨木の中心部、建物に半分埋まっていた道標。建物の取り壊しで隠れていた面も読めるようになりましたが開発の邪魔になってここへ。現在展示方法を検討中とのこと。
でも、道標はもともと有った場所に残らないと歴史探訪の目印にならないんです…。
資料館で見せてもらった銅鐸鋳型が発見されたのは、このマンションの建築時。銅鐸工房は小さなもので、掘り当てられたのは僥倖だったという話を、さっき聞いたばかり。
佐和良義神社
秋祭りで紅白幕が張られていました。写真下のコンクリートブロックは提灯立て用。
境内社には石清水八幡宮の遙拝所を兼ねた八幡宮も
長い碑文を刻んだ灯籠が参道入口に。この灯籠を神前に献じる思いを伝えるもの。理事の田中さんから内容の説明を聞きました。
沢良宜城跡
美沢高層住宅が建っているところが、城跡と重なります。開発前には城の濠跡と考えられる池も残っていて、中井さんには魚釣りした思い出もあるところ。
船頭の樋跡
茨木川を往来する船頭が住んでいたから「船頭の樋」
農業用水を引くための樋ですが、この名称は茨木川が水運に使われた歴史も伝えています。
沢良宜浜村の氏神、道祖神社へ
ここには境内社として水神社があり、明治初期、神崎川改修に献身された工事責任者の髙島伊太郎命が合祀されています。感謝の思いを今に伝える神社です。
専念寺
佐和良義神社に本地仏として祀られていた文殊菩薩立像が、廃仏毀釈から逃れてこの寺に。美しい姿を間近に拝むことができました。
ご住職のお話も聞きました。
お茶やお菓子の接待まであって、ちょっと恐縮。
沢良宜浜農業会館で本会理事阪口幸人さんのミニ講演会。茨木市南部の歴史、伝承のいろいろを聞きました。沢良宜浜に残る貴重な民謡「沢良宜浜もみすり唄」はDVDで視聴。
農業会館の近くには「力石」も
締めくくりは髙島伊太郎顕彰碑
奥が顕彰碑で手前は髙島信蔵墓碑。髙島家を継いだ信蔵は安威川・茨木川合流事業の実現に尽力されています。
案内人に会長から 謝意を伝えて見学会は終了。
元茨木川沿いのさくら通りは何度も車で通っているところ。ゆっくり歩いて、歴史を知った見学会でした。
令和4年3月16日
令和3年度 第3回 ぶらり見学会
上京散策その2
応仁の乱の故地を歩く
前回『上京散策その1(令和3年3月28日)』では、町衆の信仰を集めた法華寺院を中心に歩きましたが、今回は東軍の大将細川勝元の屋敷跡や西軍の山名宗全の屋敷跡などを本会副会長畠山眞悟さんの案内で巡りました。
3月中旬とは思えない暖かさの中、多くの名所を見学しました。とくに、普段は拝観謝絶の興聖寺が「京都冬の旅キャンペーン」期間中ということもあって特別に公開され、有名な古田織部像を見ることができました。
地下鉄今出川で集合。
会長の挨拶のあと、いざ出発。
今出川通りを西へ。
新町通りから細川勝元の屋敷があったとされる東陣へ。
西陣の地名はあるのに東陣がないのは残念と地元の人々(東陣プロジェクト実行委員会)の手で案内板が建てられている。
もう民家ばかりとなった本阿弥光悦邸跡。京都の町衆の多くは熱心な日蓮宗信者でもあったというが、光悦もその一人。
白峰神宮
保元の乱(1156)に敗れ隠岐島に流された崇徳上皇の霊を慰 めるために、明治天皇によって創建された。のちに淳仁天皇、源為義、為朝も合祀。
蹴鞠道の宗家飛鳥井邸の跡地であったことから、近年は「球技の神様」として有名。サッカーボールからバトミントンのシャトルまで山のように奉納されている。
堀川通を渡って山名宗全の屋敷跡へ。
町家と町家の間に石碑が…。
本門法華宗大本山妙蓮寺
さすがに日蓮宗・法華宗の大寺が多い。
興聖寺
妙蓮寺の北、今日の目玉、40年ぶりに公開される興聖寺へ。
穏やかな日差しの禅宗庭園は、また格別…。
「降り蹲踞」や織部灯籠は、さすが茶人ゆかりの寺。
興聖寺の北、このあたりでは数少ない真宗寺院の西法寺。
元々は唱導で有名な安居院の址。
法然門下の一人、聖覚法印の旧跡。
門下の後輩であった親鸞は聖覚法印の『唯信鈔』を何度も写し、『唯信鈔文意』という注釈書も著した。この縁もあり、文禄年間に真宗寺院として再建されている。
櫟谷七野神社
ここは賀茂神社に奉仕する斎王の御所、賀茂斎院跡とされる。
一段高いお社はどこか高貴な風情がある。
岩上の祠は、堀川二条から御所へ移したところ、様々な怪異が生じたため、ここに安置し祀られたといういわれがある。
雨宝院
もともとは空海開基の大伽藍大聖歓喜寺とされ、境内は狭いながらも秘仏歓喜天、千手観音などが祀られている。
江戸時代の享保、天明の大火にも焼けることがなかったので不燃寺ともいわれる本隆寺(改修工事中)の門前を経て…
首途(かどで)八幡へ。
牛若丸(源義経)がここで道中安全を祈願して奥州へ出発した地といわれる。旅行安全祈願の神社。
京都市考古資料館
平安京に関する発掘資料が展示されている。常設展示は石器時代から江戸時代までの遺物が時代順にならび、今は「鎌倉時代の京都」をテーマに特別展示が行われている。
だいぶ皆さんもお疲れが出てきました…
ここでひといき。
晴明神社を経て一条戻橋
「戻橋」の名の由来は様々あるが、能や歌舞伎でわれらの茨木童子が渡辺綱に腕を切られてしまった場所。
安倍晴明が式神を橋の下に隠していたとも…。
今日の「ぶらり見学会」は一条戻橋から戻ることなく、会長の挨拶で締めて解散。皆さん、お疲れ様でした!!
令和3年11月24日
令和3年度 第2回 ぶらり見学会
旧河川を歩く
11月も後半、いよいよ秋も深まってきましたが、この日は晴天に恵まれました。「旧河川を歩く」というテーマで、付け替え工事以前の安威川・茨木川の流路を歩いています。今回の案内人は本会理事木村威英さんです
最初に三島コミュニティーセンターで、昭和初期の安威川・茨木川大改修工事に至るまでの歴史を紹介。案内人作成によるアニメーション入りスライドで、当時の川の様子や治水が困難になっていた理由なども確認しました。
西河原公園から散策はスタート。公園内に多い竹は、安威川の旧堤防に植わっていた竹林のなごり。地形にも堤防の跡が残っています。
見上げているのは公園に残る「西河原大橋」
この橋の「渡り初め式」で橋の下を流れる安威川の写真を見てから訪れると、見なれたはずの景色も新鮮なものになりました。
安威川・茨木川の合流点
安威川と茨木川の堤防に囲まれてしまうところの排水の構造も解説。茨木川の下にトンネル水路(伏越樋)があることに初めて気づかれた方も多かったようです。
伏越樋の入口を見る
茨木川の堤防
今は堤防の階段になっているところ。ここに、二川合流が合意に至る決め手の一つともなった水門がありました。
元茨木川緑地の北端に建つ
「安威川茨木川合流の碑」
背面の碑文に刻まれた方々の名を見つめる参加者。名を残すことのない土木作業従事者の苦労にも思いをはせました。
今回の見学会の目玉の一つになった「茨木川橋梁」
東海道線が単線で開通した明治9年に建設された橋脚が現役で使われています。石組みの中にある「アーチ形の模様」のように見える煉瓦は、この橋脚の構造を示す重要なもの。地下にある基礎を含め、増水時の激流に耐えうる頑丈な構造です。
橋脚の南側石組みの部分と、北側コンクリートの部分
明治初年の開通時から、昭和初期の複々線化まで、ここには東海道線の歴史が残され、それは日本の近代史とも重なります。
参加者から「終戦直後、大阪から京都に向かう国鉄の電車の中で生まれたメロディが、『青い山脈』ですよ」というお話も聞くことができました。
佐介樋跡
近現代の歴史が中心になった今回の見学会でここだけは戦国時代に話が及びました。
茨木神社の横で…
摂津名所図会に描かれた茨木神社の絵。
昭和4年に描かれた茨木神社の絵。
当時の茨木川の姿を元茨木川緑地の今と重ねました。
想像力だけで鳥瞰図を描いた画家の力量にも改めて感心。市役所旧館の展望台からは、名所図会とほぼ同じ角度で茨木神社を見ることができます。
「茨木市はもっと宣伝したらいいのに…」
茨木市消防本部(茨木市合同庁舎)横の茨木童子のところで、今日の散策は終了。
締めくくりは、茨木高校の前身、茨木中学の生徒たちが自らの手で掘り茨木川の水をひいた初代のプールのお話。当時在籍した大宅壮一、川端康成の日記からは、二人の個性だけでなく、それを見守った先生方の姿も浮かびあがります。期待に応えオリンピックで成果を残した高石勝男選手の活躍でここ茨木が「日本近代水泳発祥の地」となりました。
私たちの父母、祖父母が生きた時代でもある明治から昭和初期。「歴史になりたての歴史」を訪ねた今回のぶらり見学会。歴史ロマンを楽しむという雰囲気はありませんでしたが、今に残るものも多く、過去と現在を重ねやすく感じました。
令和3年10月28日
令和3年度 第1回 ぶらり見学会
西国街道と巡礼道を歩く
紅葉にはまだ少し早いが、秋の日差しが時折さしてくる絶好のハイキング日和。西国街道と巡礼道、郡山寺内町をぶらり見学しました。今回の案内人は本会理事の田中裕三さん。郡山宿本陣前で集合。コロナの余波で本陣がまだ公開されていなかったのは残念でした。
郡山は中世からの交通の要衝であり、江戸時代には参勤交代や多くの旅人が行き交う宿場として栄えました。中世の古い道と西国街道や巡礼道などの江戸時代の道が交錯するのが、この郡山です。
新旧の道標が、集められたところ
スタートから郡山寺内町までは、さすがに要害の地だけあって登り道が続きます。郡山寺内町へのメインルート。戦国時代の人々も登ったであろう道。まだ体力のある歩き始めで良かった・・・
右手に「出し(馬出し)」を見ながら寺内町の玄関口を目指します。寺内町の「城郭都市」としての構造が残るところ。
急な登りもあと少し
やっとこさ玄関口の「門口」「西ノ辻」に到着。
郡山寺内の本坊跡候補地のひとつに建つ真宗寺院
「中陽山 正現寺」。6月の大阪北部地震、9月の台風21号。平成30(2018)年に茨木市を襲った災害は多くの寺社に傷跡を残しました。正現寺は本堂を失い再建されないまま現在に至っています。
この寺内町を支えていた郡山衆の「会所」跡へ。 道が細くなっているところが、古来の道の残っているところ。
「会所」への道がかすかに残っています。
さらに高台へ「城ノ内」を目指します。
石山本願寺の阿弥陀堂は、永禄7年(1564)12月に焼失しますが、翌年、この郡山寺内町のお堂を仮の阿弥陀堂と して本願寺へ移築します。いかに大きなお堂があったかが偲ばれます。そのお堂は郡山寺内町の最も高い場所、「城ノ内」にあったと考えられます。宅地開発前には土居の跡も残っていました。
周囲一望の眺めは絶景。さすがに要害の地。郡山公民館で休憩しながら、今日の見どころを説明。
*本ホームページ、歴史の広場に掲載したレポート 「郡山寺内町を歩く」もご覧ください。
宿河原に出る古い道を下り、西国街道に戻って西へ、右へ曲がると巡礼道へ。巡礼橋を渡ります。田圃の道は昔の雰囲気を残しています。
道祖神社で休憩。
茨木市内では数少ない猿田彦命を祀る神社の一つ。 国道のすぐそばに静かな境内がありました。
国道171号線沿いにぼろ塚へ。
現在のぼろ塚は、戦前の国道整備の際に現在地に移されました。元は国道の北にありましたが、その跡はわからなくなっています。
ぼろ塚から西に100mほどのところ、箕川沿いにこんもりと木々の茂っている場所があります。屈強の猫を食い殺した鼠がいたという伝承の残るねずみ茶屋がここ。
国道171号線を渡り、清水の朝日寺を通って集落を抜ける。かつて中世には蓮如上人も有馬温泉へ向かったであろう道を西へ。
何があるわけでもないが、奇妙に折れ曲がった道の高まり(今は田に造成されている)が井阪塚。足利尊氏の家臣井阪太夫の邸宅があったと伝わるものの、邸宅のあとにしては不自然。やっぱりなんらかの道印があったと考える方が自然。江戸時代の絵図ではここに塚が描かれています。
日が差すと暖かく、吹く風は涼しい。歩くだけでも気持ちの良い3時間。
車ではしょっちゅう通って いる国道171号線ですが、説明を聞きながら歩くことで道沿いの豊かな歴史を再発見できました。