茨木市
文化財愛護会
ミニ講演会
会員の皆さんが気軽に参加できる手作りの講演会です。あるときは聞き手に、あるときは講師に・・・茨木の歴史や時々の歴史の話題を随時とりあげます。
令和6年度
第6回 ミニ講演会 令和6年7月10日 於クリエートセンター202
「茨木の川と人々」
講師 木村威英さん (本会理事)
七十二候では「温風至(あつかぜいたる)」そろそろ梅雨の終わりと夏の始まりを感じる頃…。残念ながら現在の日本では穏やかな季節の移り変わりは縁遠いものとなってしまいこの日は真夏日となりました。そんな中16名に参加いただいています。
安威川改修は小学校4年の社会科、郷土学習でも取り上げられ、茨木市域の学校で教材研究・教育実践が積み重ねられています。三島小学校の郷土史の授業をゲストティーチャーとしてお手伝いするようになると「子どもたちに教えるためなら自由に使ってほしい」と多くの貴重な資料(聞き取りの記録、当時の写真など)をいただき、私もこの工事について調べてきました。今回、その成果を「川と人々との物語」としてスライドにまとめました。
講演要旨
1、茨木川と安威川
(1)近世〜明治・大正 水害の歴史
「安威川も茨木川も天井川で治水が困難だった」と言われます。しかし、自然の力で、川が周辺の土地より高いところを流れるようになるはずはありません。天井川という地形は人間の活動によるものでした。堤防を築く、さらにより高い堤防に改修を進めるという治水の努力が結果的により治水困難な川を育ててしまっています。記録がはっきりしている明治以後、安威川改修工事完成までの茨木市域は、いたるところで堤防の決潰が繰りかえされました。それでもなお、大規模な改修が実現できなかった背景には、安威川沿いの住民と茨木川沿い住民との利害対立がありました。小学生には話せないような裏話も、今回は紹介しています。
(2)茨木川の付け替え、安威川改修工事
昭和11年に着手された茨木川付け替え・安威川改修工事は、2.26事件、日中戦争、さらに対米英宣戦に続く、日本の近現代史と重なります。特に盧溝橋事件を発端とし見通しの立たないまま拡大した日中戦争は、そのまま改修工事の工期と重なります。多くの青年・壮年が徴兵され戦地に赴く中で、人力に依存するこのような大規模工事を担ったのはどんな人たちだったのか。昭和一桁世代への聞き取り、卒業写真などからこの工事に朝鮮人労働者が従事していたことが明らかになります。
茨木市域の航空写真は戦後米軍が撮影したものが最も古いと思われていました。しかし、数年前から昭和17年に大阪市が防空計画作成のために撮影した写真がインターネットで容易に見られるようになり、安威川改修工事完成直前の様子がわかりました。この写真と当時を知る方からの聞き取り、さらに明治期の地図や現在の地形を重ねることで、工事の規模が非常に大きなものであったことが実感されるようになりました。土を運ぶトロッコ以外、重機の無かった時代にこの工事を成し遂げた、厖大な労働量。私の感じた驚きを共感していただきたいと思います。
2、茨木川の歴史を伝える神社とプール
(1)水神社の祭神
私が茨木の川の話をしていると知った愛護会会員からも資料をいただくようになり、その資料から水神社の起こりを取り上げました。江戸期より、茨木市域南部では神崎川への排水が困難となり、神崎川改修は宿願となっていました。明治初期にも改修工事が行われますが、この工事の責任者となったのが沢良宜浜村の高島伊太郎という方。彼は工費の不足に私財をなげうって補い、神崎川改修を完成させます。人々の感謝の思いは、高島伊太郎命を水神として合祀する水神社を誕生させました。この神社の始まりについて、大阪府と地元でやり取りされた文書も残り「神社は国家の宗祀(そうし)である」とする明治の神道政策との対立があったことも伺えます。そのような困難も乗りこえて今も元茨木川の堤防に鎮座し祭が続く水神社を紹介しました。
(2)茨木中学のプール
50周年記念講演で、茨木中学で地理歴史を担当された天坊幸彦先生の業績を聞きました。同時期に在職された先生に、体操の杉本傳先生がおられて、川端康成、大宅壮一などの著名人もその教え子。杉本先生の指導下に中学生たちが鍬を振るって作った最初のプールのことを紹介しました。十代前半、ちょっと自意識過剰気味になる年頃、このプールが生徒たちに「蛟竜ヶ淵(飛龍の幼生が成長するところ)」と呼ばれていたエピソードなども紹介。茨木川の水を引いたプールで鍛え、日本の水泳界に名を残した高石勝男はもっと評価されてよい人物でしょう。プール掘りには私の祖父、木村小次代も参加しており、幼い頃に聞いた祖父の思い出話も取り入れています。
3、忘れられがちな川の自己主張
(1)昭和42年水害の一面
「茨木の川」というと、安威川、茨木川が心に浮かびますが、昭和42年の水害について調べてみると、茨木の市街中心部、阪急茨木市駅周辺の浸水を招いた川は現在「せせらぎのプロムナード」になっている高瀬川だったことがわかります。この流れに水が集中した背景には、茨木川・安威川合流によって生まれた地形がありました。
(2)クリエイトセンター前を流れる川
クリエイトセンター前を流れる、小川水路も42年には元茨木川の堤防から国鉄茨木駅周辺を浸水させています。小川水路の溢水には茨木の急速な都市化が背景にありました。42年の水害から茨木ダムの建設が計画された…という部分ばかりが強調されがちですが、高瀬川・小川水路にも川と人々との物語があったことが忘れられてはいけないでしょう。小川水路の改修は、銅鐸工房・東奈良遺跡の存在が明らかになる郷土史上の大発見にもつながりました。
★水神社の紹介内容は中井晃様よりいただいた資料に依るものです。
★ミニ講演会を担当することになり、愛護会の先輩会員から、また新たな資料を提供していただいています。今回は活かせていませんが、さらに理解を深めたいと思います。ありがとうございました。
安威川改修工事について
茨木市立郡小学校の昭和59年の社会科授業研究記録「郷土を開く—茨木川の切りかえ—」。収集された昭和10年の水害と、昭和42年水害の記録写真。
朝鮮人労働者について
安威の海軍トンネル(地下倉庫)についての、資料プリント、冊子類、1996年茨木市制作のビデオ。高槻地下倉庫についての諸資料。


野々宮の家の壁に残る水害の痕跡

安威川沿いにも茨木川沿いにも人の欲

堤防建設の土取り場

水神社の祭神

授業の一環だったプール掘り

市街中心部の浸水に安威川は無関係

小川水路改修の大きな副産物
第5回 ミニ講演会 令和6年6月11日 於クリエートセンター202
中世茨木の『市』-五日市と十日市- (古文書に見る茨木の歴史5)
講師 田中裕三さん (本会理事)
6月とは思えない30度超えのなか、16人の皆さんに参加いただきました。
今回は、地元の地名「五日市」と「十日市」を題材に中世の「市」について考えてみようという試みでした。このほかにも、かつての茨木村には「北市場」という地名が残っています。全国には700以上の市場地名があるとされています。茨木にはほかにも中世の「市」があったのではないでしょうか。

画面がすこし見ずらかったですね
講演要旨
『一遍聖絵』は時宗の祖 一遍上人の一生を描いた絵巻物。そのなかに中世の「市」の様子が生き生きと描かれている(巻4第14段)。
弘安元年(1278)夏、一遍は九州から伊予国を経て厳島に渡り、備前国藤井(岡山市東区)に至る。そこで荘園の政所(管理人の役所)の女房を得度させる。主人は吉備津神社の神主の子で、女房の出家を怒り、「福岡の市」(岡山県瀬戸内市長船町)で布教する一遍を殺そうとする。一遍に「吉備津宮の神主の息子か」と言い当てられ、驚き改心する。
「聖絵」のこの場面には、怒り狂って今にも刀を抜かんとする政所のあるじに、ひるむどころか仏への帰依を説く一遍の姿が描かれている。その場面の背景には、商人や行き交う人々で賑わう「福岡の市」の風景が広がっている。
小屋掛けの下には、あしだ(高下駄)や反物、魚や鳥を商う人々がいる。米を売る商人の後には米俵が積み上げられている。魚を天秤棒で振り分けにして運ぶ行商人もいる。川岸には売り物の備前焼だろうか、たくさんの大壺が並べられている。舟の向こう岸には背に荷物を乗せた馬が歩き、その後から馬子らしい人の姿も見える。ヒゲの男が銭さし(緡 紐にとおした銭96枚を100文とした)を持って、反物を買おうとする様子も描かれている。この頃(鎌倉時代中期)には、すでに大量の貨幣(宋銭)が流通していたことが分かる。
鎌倉時代の「市」は、港津や宿駅など物資の行き交うターミナル、人々の集まる社寺の門前などに立地した。これらの場所はどの領主にも属さず、俗権力からは自由な出入りを認められ、無主地、無縁地とされた。また、荘園の物資を換金(遠隔地の領主への送金など)するため、政所の館の周辺にも「市」が立った。
古くは、平安京などの都城に見られる官設の「市」とは別に、道が交差し人々や物資が行き交い集う公共的な広場=チマタ(衢)に「市」が設けられた。海柘榴市(つばいち ツバキイチの転化)や三輪の市などである。チマタでは歌垣(*注1)などのイベントも行われたという。「市」は村と村、聖と俗の境界であり、市場は所有権という「世俗の縁の切れる場所」(網野善彦『歴史を考えるヒント』2001)と考えられた。河口や河原もまたこのような無主、無縁の地であった。
荘園の発達する平安中期頃には、その需給を満たすため干支にちなんだ牛市、酉市などの定期市が開かれた。月の特定の日、三の付く日なら月に三回、五と十の付く日なら六回である。一般的に、平安末~鎌倉時代は月に1回ほど、応仁・文明頃は月に3回(=三斎市)、戦国時代になると6回(=六斎市)が多くなるといわれている。必ずしもこの通りではないだろうが、地域経済の発達と貨幣経済の浸透によって、市の開かれる日(市日)の回数は増えていく(*注2) 。六斎念仏にちなむ三斎市や六斎市という呼称はあとから命名されたのではないだろうか。
茨木市域には「五日市」、「十日市」という地名が残されている。中世の茨木にもこのような「市」があったのだろうか。
堀家文書『高反別記』(『永井肥前守様御領分摂州島下郡五ケ村高反別之記』)に「茨木村市場免状之写」が転載されている。天正13年(1585)に豊臣政権の奉行であった安威五左衛門が「茨木市場」宛てに出した「掟」(制札)である。この時期には、すでに茨木村に「市」が成立していたことが分かる史料である。通行の自由を前提に、諸公事(税や人夫役)の免除、押し売り・押し買いの禁止、理不尽な取り立ての禁止が記されている。このような市場制札は、永禄10年(1567)に織田信長が美濃国加納市場(岐阜市神田町)に宛てた制札が、「楽市楽座」令として有名である。
五日市は、城下町茨木からみれば茨木川の上流にあたり、丹波道や巡礼道が通る交通の要衝である。川の堤が完備されていない時代、このあたりは河原だったのかも知れない。現在も釜谷の甘泉や水神の祀られる戸出(湧水池)がある。ここが市場であったことを示す史料は、五日市村が和田惟政供養塔の存在を報告した明治14年の「上申書」のみである。ここには、供養塔は村の中央の「字市場」にあると記されている。
十日市が中世の市場であったことは、いくつもの史料が証明してくれている。文安2年(1445) の『総持寺散在所領取帳写』(常称寺所蔵文書)には、「ミノ原ノ北畠」(現帝人研究センターあたり)に「十日市は(市場)こうや 二郎左衛門」が耕作する総持寺領があったと記されている。15世紀中頃には、すでに十日市場は存在したのだろう。その位置についても、明治6年『十日市村地籍図』(安威・吉田家文書)に記される。十日市場もまた、安威川の河原であり、安威村を通り茨木に抜ける丹波道(幾通りかある)沿いである。この道は、文禄3年(1594)『茨木村御検地帳』(堀家文書)に頻出する「北市場」(現田中町~上泉町)に通じている。
戦国時代の末、茨木が城下町から在郷町へと変化するなか、「茨木市場」の姿が垣間見える史料がある。宝永5年(1708)『恵美須神之縁起』(茨木神社所蔵)である。「えべっさん」として親しまれている茨木恵美須講の始まりが記され、元和年間(1615-1623)の「茨木市場」の様子がうかがえる。
*注1 海石榴市の八十の衢に立ち平(なら)し 結びし紐を解かなく惜しも (万葉集巻12-2951)
*注2 市日以外の市場の荒涼とした風景は「佐久郡伴野の市」(『一遍聖絵』巻4第16段)に描かれている
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福岡の市(『一遍聖絵』巻4第14段)部分

茨木村市場免状之写(堀家文書)
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五日市場地名(明治14年『上伸書』)旧五日市村文書
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十日市場地名(明治6年十日市村地籍図)吉田家文書
令和5年度
第4回 ミニ講演会 令和5年9月12日 於クリエートセンター202
信徒発見史の新事実にふれて-古文書に見る茨木の歴史4-
講師 田中裕三さん (本会理事)
残暑厳しいなか、19人の皆さんに参加いただきました。今回は、少し広めの部屋(クリエートセンター202)でゆったりと開催できました。
“千提寺周辺は今とは違い鬱蒼(うっそう)としてキリシタンが隠れるには絶好の場所”という実体験。“なぜ遺物は千提寺・下音羽からしか発見されないのか”などいくつかの発言がありました。
「双方向性講演会」にはまだまだですが、いろいろ工夫の余地はありそうです。これからも、参加者の皆さんと一緒に作るミニ講演会を目指します。
講演要旨
新聞報道(2023.5.9付毎日新聞夕刊)で、千提寺の隠れキリシタン発見についての新事実が報道された。
茨木の隠れキリシタンが始めて発見されたのは、大正9年(1920)2月17日とする今までの認識を覆す事実である。遡ること40年、明治12年(1879)2月14日、フランス人宣教師のマラン・プレシは二人の教理伝道師を北摂の山中に派遣し、千提寺でキリスト教信者を発見したという。(資料―1)
日本における隠れキリシタンの発見は、元治2年(1865)3月17日、神父プティジャンが長崎・大浦天主堂を訪れた中年の女性からキリスト教信仰を告白されたのが最初とされる。前年にできた大浦天主堂は、周辺住民にとっては初めて目にする西洋建築であり、「フランス寺」と呼ばれ見学者が絶えなかったという。宣教師たちは、そんな見学者のなかに潜伏キリシタンの存在を期待していた。発見の日、15人ほどの集団のなかの女性がプティジャン神父に声をかけた。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」。その中年女性は「杉本ゆり」と名乗り、プティジャンに自身のキリスト教信仰を告白した。
これ以後、キリシタンであると告白する人々が長崎各地にあらわれ、いまだ禁教令の行われていた長崎で、プティジャンは秘密裏にミサや指導を行っていた。しかし、キリスト教信者であることを公に表明する者が現れたため、江戸幕府の禁教令を引き継いだ明治政府は、彼らを迫害し弾圧した(浦上四番崩れ)。その後も、明治22年(1889)、明治憲法が「信教の自由」を定めるまで、世間にはキリスト教を忌避する江戸時代の遺風は残っていた。
なぜプレシ神父の千提寺キリシタンの発見は、歴史のなかに埋もれてしまったのか。隠れキリシタンを取り巻く厳しい時代背景もあるだろう。もう一つは、この時期、プレシの属するパリ外国宣教会は古キリシタンの発見とその集団的改宗を布教の目標としていたことに関係する。千提寺地域での布教目的が期待できず、そのために記録には残っていながらこの発見は忘れ去られた。(ラモス「茨木・千提寺の隠れキリシタン初発見」2023人文学報120)
隠れキリシタン発見史の新事実は、改めて千提寺・下音羽の隠れキリシタンを見つめ直す良い機会を与えてくれた。
ザビエル像やキリスト磔刑像、マリア十五玄義図など、キリシタン遺物の発見は驚嘆に値するが、茨木の隠れキリシタンへの興味は、キリシタン遺物に偏ってはいないだろうか。
①千提寺・下音羽周辺でキリスト教布教はいつ頃まで行われたのか
②キリスト教は北摂一帯に広まったのに遺物は清溪地域からしか見つからないのはなぜ
③発見されたキリシタン遺物が瞬間凍結したかのように残ったのはなぜ
④キリシタン遺物の量と質は個人のものとは考えられないほど大量かつ良質なのはなぜ
⑤キリスト教の急速な浸透は中世浄土真宗の信仰組織と似ていたからではないか
これらの疑問を解き明かす資料は必ずしも多くはないが、大正時代からの調査研究の積み重ねや近年の科学的な遺物資料の分析などは、これらの疑問の答えを暗示してくれている。
また、江戸時代の隠れキリシタンについて考えるとき、キリシタン類族とされた人々のことも忘れてはならない。
禁教令の重点は宣教師の摘発や諸大名・家臣等から一般庶民へと変化し、元和(1615-1623)頃になると取締りも激しくなり、キリスト教徒は潜伏を余儀なくされた。17世紀中頃には、全国でキリシタンの密告を奨励(キリシタン高札=明暦元年1655頃)、また村々では宗門改め(資料―2)が行われた(寛文年間1661-1672?)。さらに、改宗した者の親族も類族帳に記され、監視された。改宗したキリシタンの親族は、男系は5代、女系は3代までが類族とされ、死後も遺体を塩漬けにして検視を待つよう指示されるなど、厳しい監視が続けられた。(『切支丹改定書』貞享4年1687)
キリシタン類族に関する史料は、江戸時代の茨木村にも残されている。元禄3年1690に茨木村で転キリシタンの親類が亡くなり、その顛末(てんまつ)を領主の美濃加納藩永井家の役人に届け出ている。転びキリシタン革屋治兵衛の妻の甥(紺屋長兵衛)が病死したので、旦那寺の本源寺に遺体を取り置き、検視のうえ火葬を見届けたという報告である。(資料―3)
郡山宿本陣や東奈良遺跡などとともに、茨木市が全国に向けて発信したい郷土の文化財のひとつ、隠れキリシタンの里について、よりいっそう視野を広げて見つめてみてはどうだろうか。
*「潜伏キリシタン」は世界文化遺産登録の用語で、ここでは耳慣れた「隠れキリシタン」とした

ゆったりと開催できました
(資料―1)
