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ミニ講演会

会員の皆さんが気軽に参加できる手作りの講演会です。あるときは聞き手に、あるときは講師に・・・茨木の歴史や時々の歴史の話題を随時とりあげます。

令和5年度

20230912ミニ講演会

第4回​ ミニ講演会 令和5年9月12日 於クリエートセンター202

信徒発見史の新事実にふれて-古文書に見る茨木の歴史4

  講師 田中裕三さん (本会理事)

 残暑厳しいなか、19人の皆さんに参加いただきました。今回は、少し広めの部屋(クリエートセンター202)でゆったりと開催できました。

  “千提寺周辺は今とは違い鬱蒼(うっそう)としてキリシタンが隠れるには絶好の場所”という実体験。“なぜ遺物は千提寺・下音羽からしか発見されないのか”などいくつかの発言がありました。

 「双方向性講演会」にはまだまだですが、いろいろ工夫の余地はありそうです。これからも、参加者の皆さんと一緒に作るミニ講演会を目指します。

講演要旨

 新聞報道(2023.5.9付毎日新聞夕刊)で、千提寺の隠れキリシタン発見についての新事実が報道された。

 茨木の隠れキリシタンが始めて発見されたのは、大正9年(1920)2月17日とする今までの認識を覆す事実である。遡ること40年、明治12年(1879)2月14日、フランス人宣教師のマラン・プレシは二人の教理伝道師を北摂の山中に派遣し、千提寺でキリスト教信者を発見したという。(資料―1)

 日本における隠れキリシタンの発見は、元治2年(1865)3月17日、神父プティジャンが長崎・大浦天主堂を訪れた中年の女性からキリスト教信仰を告白されたのが最初とされる。前年にできた大浦天主堂は、周辺住民にとっては初めて目にする西洋建築であり、「フランス寺」と呼ばれ見学者が絶えなかったという。宣教師たちは、そんな見学者のなかに潜伏キリシタンの存在を期待していた。発見の日、15人ほどの集団のなかの女性がプティジャン神父に声をかけた。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」。その中年女性は「杉本ゆり」と名乗り、プティジャンに自身のキリスト教信仰を告白した。

 これ以後、キリシタンであると告白する人々が長崎各地にあらわれ、いまだ禁教令の行われていた長崎で、プティジャンは秘密裏にミサや指導を行っていた。しかし、キリスト教信者であることを公に表明する者が現れたため、江戸幕府の禁教令を引き継いだ明治政府は、彼らを迫害し弾圧した(浦上四番崩れ)。その後も、明治22年(1889)、明治憲法が「信教の自由」を定めるまで、世間にはキリスト教を忌避する江戸時代の遺風は残っていた。

 なぜプレシ神父の千提寺キリシタンの発見は、歴史のなかに埋もれてしまったのか。隠れキリシタンを取り巻く厳しい時代背景もあるだろう。もう一つは、この時期、プレシの属するパリ外国宣教会は古キリシタンの発見とその集団的改宗を布教の目標としていたことに関係する。千提寺地域での布教目的が期待できず、そのために記録には残っていながらこの発見は忘れ去られた。(ラモス「茨木・千提寺の隠れキリシタン初発見」2023人文学報120)

 

 隠れキリシタン発見史の新事実は、改めて千提寺・下音羽の隠れキリシタンを見つめ直す良い機会を与えてくれた。

 ザビエル像やキリスト磔刑像、マリア十五玄義図など、キリシタン遺物の発見は驚嘆に値するが、茨木の隠れキリシタンへの興味は、キリシタン遺物に偏ってはいないだろうか。

①千提寺・下音羽周辺でキリスト教布教はいつ頃まで行われたのか

②キリスト教は北摂一帯に広まったのに遺物は清溪地域からしか見つからないのはなぜ

③発見されたキリシタン遺物が瞬間凍結したかのように残ったのはなぜ

④キリシタン遺物の量と質は個人のものとは考えられないほど大量かつ良質なのはなぜ

⑤キリスト教の急速な浸透は中世浄土真宗の信仰組織と似ていたからではないか

 これらの疑問を解き明かす資料は必ずしも多くはないが、大正時代からの調査研究の積み重ねや近年の科学的な遺物資料の分析などは、これらの疑問の答えを暗示してくれている。

 

​ また、江戸時代の隠れキリシタンについて考えるとき、キリシタン類族とされた人々のことも忘れてはならない。

 禁教令の重点は宣教師の摘発や諸大名・家臣等から一般庶民へと変化し、元和(1615-1623)頃になると取締りも激しくなり、キリスト教徒は潜伏を余儀なくされた。17世紀中頃には、全国でキリシタンの密告を奨励(キリシタン高札=明暦元年1655頃)、また村々では宗門改め(資料―2)が行われた(寛文年間1661-1672?)。さらに、改宗した者の親族も類族帳に記され、監視された。改宗したキリシタンの親族は、男系は5代、女系は3代までが類族とされ、死後も遺体を塩漬けにして検視を待つよう指示されるなど、厳しい監視が続けられた。(『切支丹改定書』貞享4年1687)

 キリシタン類族に関する史料は、江戸時代の茨木村にも残されている。元禄3年1690に茨木村で転キリシタンの親類が亡くなり、その顛末(てんまつ)を領主の美濃加納藩永井家の役人に届け出ている。転びキリシタン革屋治兵衛の妻の甥(紺屋長兵衛)が病死したので、旦那寺の本源寺に遺体を取り置き、検視のうえ火葬を見届けたという報告である。(資料―3)

 

 郡山宿本陣や東奈良遺跡などとともに、茨木市が全国に向けて発信したい郷土の文化財のひとつ、隠れキリシタンの里について、よりいっそう視野を広げて見つめてみてはどうだろうか。

*「潜伏キリシタン」は世界文化遺産登録の用語で、ここでは耳慣れた「隠れキリシタン」とした

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ゆったりと開催​できました
(資料―1)
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京大人文研アカデミー2023.7.17パンフレット

(資料―2)
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宗門人別帳(島区有文書)

(資料―3)
差上申一札之事(『新修茨木市史年報第13号』より).png

差上申一札之事(元禄3年)キリシタン類族について
『新修茨木市史年報第13号』より

20230714ミニ講演会3

第3回​ ミニ講演会 令和5年7月14日 於クリエートセンター202

茨木の種痘事始め-古文書に見る茨木の歴史3-

  講師 田中裕三さん (本会理事)

 先日からの雨も上がり、じめじめした天気ではありましたが、15人の参加がありました。前回の隣の202号室。やや広めの部屋で、ゆっくりお話しを聞いてもらえました。またまたコロナ流行のきざし・・・ソーシャルディスタンスです。

 少人数の利点を生かした「双方向講演会」、なかなか実現は難しい。話をいくつかに区切って、部分ごとに質問や感想の時間をとってみようか、などと考えています。

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ソーシャルディスタンスです

講演要旨

 天平文化に代表される一見華やかな聖武天皇の御代は、政治的にも社会的にも必ずしも平穏な時代ではなかった。とりわけ「天平のパンデミック」ともいわれる天然痘の流行は、凄惨を極め、当時の総人口(550~650万人)の25~35パーセントにあたる100万~150万人が感染により死亡したといわれる。

 この天然痘の流行は、天平7年(735)に太宰府管内で発生して全国に広がり、天平9年(737)6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は天平10年(738)1月までにほぼ終息したが、日本の政治・経済・文化に及ぼした影響は甚大であった。

 天平以降、いくども天然痘は日本社会を襲い、多くの死者を出してきた。時代とともに人々の集住が進むにつれ、疫病流行の間隔が狭くなり、江戸時代後期には数年ごとにコレラや天然痘が流行するようになる。天保飢饉(1833-1837)のあと、弘化年間(1844-1847)にも天然痘が大流行し、各藩はその対応をせまられた。

 そんななか、嘉永2年(1849) 8月、佐賀藩で日本初の牛痘種痘(人痘種痘は死亡率が高く普及しなかった)が開始された。これより20年早く、蝦夷・松前で中川五郎治によって牛痘種痘は行われていたが、秘伝とされ普及しなかった。種痘法の効果は集団免疫だからである。

 嘉永2年(1849)11月、すでに蘭学者、蘭方医として高名であった緒方洪庵は、京都の蘭方医日野鼎哉(ていさい)・佐賀藩医笠原良策からワクチンを入手する。日野葛民(かつみん)(鼎哉の弟)・大和屋喜兵衛(道修町の薬種問屋)を中心に社中(組合)を結成し、大阪古手町(道修町4丁目)に種痘所=除痘館を開設した。多くの医師たちの献身的な努力によって牛痘種痘は普及した。

 一方、江戸ではシーボルト事件(文政11年1828)の余波や奧医師らの妨害もあって、大坂除痘館の活動から遅れること9年、安政5年(1858)にようやくお玉ヶ池(東京都千代田区)に種痘所が開設される。しかもこれは幕府の開いたものではなく、江戸の蘭方医83名の資金拠出によるものという。この間、多くの人命が失われた事はいうまでもない。

 茨木市域でも種痘所(分苗所)開設の記録が残されている。緒方洪庵の弟子、潮田耕平は慶応3年(1867)に茨木村で種痘所を開設する。潮田耕平は備前岡山出身で、嘉永3年(1850)、洪庵が備中足守藩(岡山県)に除痘館を開設したとき、その事業に参加している。その後、高槻藩医となり、高槻から鮎川村に住居を移し、茨木村で開業している。注目すべきは、潮田の種痘所開設の14年以前、嘉永6年(1853)に島村の医師九河順道が種痘所を開設していることである。

 九河順道がどのような経緯で種痘所を設けたのかは分からないが、その先進性は際立っている。九河家は代々、島村で医者をしており、華岡青洲の春林軒「門人録」には縁者と思われる九河俊良の名前がみえる。漢方・蘭方折衷の医学を学んでいたのだろう。このほかにも、幕末の茨木市域では多くの医師たちが活動し、そのうちの幾人かは種痘所を設け、他の医師たちも種痘事業に参加していた。

 蘭方医の解禁に加え、江戸に種痘所が設置された安政5年(1858)を画期として、日本における種痘は一気に普及する。蘭方、漢方を問わず、医師たちが一致団結して種痘の普及に努めた結果、明治9年(1876)には「天然痘予防規則」が実施され、国を挙げて天然痘撲滅に取り組むこととなった。そしてついに、昭和55年(1980)WHOは天然痘撲滅を宣言し、地球上からこのウィルスは消滅した。(生物化学兵器として備蓄する国もあるというが・・・)

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嘉永3年晩春(『緒方洪庵適々斎塾姓名録』)

潮田一家宗旨送り状(文久3年伊勢寺)鮎川区有062-01381-001.jpgの複製

潮田一家宗旨送り状(文久3年伊勢寺)鮎川区有文書

令和4年度

第1回​ ミニ講演会 令和4年7月12日 於クリエートセンター201

大塩の乱と茨木古文書に見る茨木の歴史1

  講師 田中裕三さん (本会理事)

20220712ミニ講演会

 朝からの大雨もあがり、蒸し暑いながらも、なんとか開催できました。新型コロナの感染拡大も気がかりでしたが、歴史に対する熱い想い?からか、15人の参加がありました。

​ 初めての試みでもあり、会員の皆さんのご意見をいただきながら、より良い催しになるよう少しずつ改善していきたいと考えています。

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講演要旨

 天保8年(1837)3月下旬のある日、下穂積村の百姓順之助のもとに大坂町奉行所から知らせが届く。三牧精一郎という京都の浪人が、大坂南瓦屋町の高原溜(病気の囚人などを収容していた)で病死したが、心当たりはないかという。順之助の実の父親である。

 順之助一家は母、祖母、兄弟姉妹の8人家族で、文政9年(1826)に山田下村(現吹田市)から下穂積村に引っ越してきた。順之助13才の時である(写真1 植野家文書)。弟健次郎は文政11年(1828)、奉公なのか養子なのか、大坂へ出ている。奉行所からの連絡は、24才になった当主順之助のほかは女ばかりの7人家族にもたらされたのである。「見忍びがたく相嘆き」(写真2 同家文書)と、はた目にも気の毒なくらいの嘆きようだった。

 年寄五兵衛は、天保8年(1837)3月27日、順之助に付添って大坂町奉行所に出頭し、事の顛末を聞かされる。三牧精一郎は2月26日、摂津の別府村で大塩平八郎探索の役人に召捕られたという(写真3 同家文書)。別府村は淀川に近く、町場である吹田村や守口村にも近く、安威川に面した水運の盛んな村である。探索方の出役(臨時に出張している役人)は、京街道や淀川に接する茨田郡八番村(現守口市)を拠点としていた。

 奉行所は、遺骸を遺族に返してやるという。五兵衛は、村の領主である一橋家の役所、川口役所(現川口一丁目)に承諾を得るため届け出る(写真2)。捕縛されて1ヶ月を経過している。「大塩の乱」の首謀者として捕えられ、「吟味中に病死」した者は数十人に及ぶ(相蘇一弘「大塩の乱関係者一覧とその考察」)。翌天保9年8月、「大塩の乱」関係者の処刑は、首謀者大塩以下18人は塩漬け死体を引き回しの後、磔にされたとされる(森鴎外『大塩平八郎』)。三牧精一郎の遺骸も塩漬けにされていたのだろうか。

 三牧精一郎は何故、えん罪で捕えられ、死ななければならなかったのだろう。唯一、彼の動向を知る手がかりが「地域蘭学者門人帳データベース」にみえる。そこには、京都の医学塾究理堂で小石玄瑞の門人とある。彼は京都に住まい、蘭方医を目指していたのではないか。究理堂には、陽明学者頼山陽、文人画家田能村竹田、書道家貫名海屋、本草学者木村蒹葭堂など多くの文化人が集い、サロンのようになっていたという。そして、現在も診療を続けている究理堂小石医院には、頼山陽や大塩平八郎らのカルテが残されている(小石医院ホームページ)。

 あくまで想像であるが、三牧精一郎は、捕縛の際、身分を証明するために医学塾究理堂の塾生と名乗ったのだろう。そして、究理堂が大塩平八郎のかかりつけ医だったことから、「大塩の乱」との関係を疑われ、厳しい取調べをうけたのではないだろうか。

 この事件のあと、三牧一家がどのように暮らしていたかを記す古文書は見あたらない。

小さな会議室なので講師と聞き手の一体感がありました

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写真1 

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第2回​ ミニ講演会 令和4年9月13日 於クリエートセンター201

お伊勢参り古文書に見る茨木の歴史2

  講師 田中裕三さん (本会理事)

 重陽の節句も過ぎたのに、温暖化のせいか猛暑日・・・ きびしい暑さのなか、22人の参加がありました。予想外の多人数で、映写画面までが遠すぎてパワーポイントが見えにくいなど、ご参加いただいた会員の皆さんにはご不便をおかけしました。

 少人数の利点を生かして、講師と参加者が講演中でもやりとりできる「双方向講演会」をと考えましたが、もう一工夫必要なようです。

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暑さにもめげず、コロナにも負けず、大勢のご参加がありました。

講演要旨

 古代には、伊勢神宮は天皇家の祖先神として祀られ、庶民は参拝することができなかった。中世以降、律令国家の解体や荘園制の衰退から、伊勢神宮の経済基盤が揺らぎ、収入を参拝者の祈祷料や喜捨に求めていくことになる。

 伊勢神宮の御厨(みくりや 産物を納めた)など地方の荘園経営にかかわっていた下級神官らは、その立場を活用して御師(おし おんし)として伊勢神宮の神威を説き、伊勢信仰を広めていった。中世前期には畿内や尾張、三河、美濃など伊勢周辺が中心だったが、後期になると彼らの布教は全国に広がり、武士層から富裕農民層にまでその影響力は浸透しはじめた。畿内など経済発展の進んだ地域では、住民と師壇関係(御師を通した伊勢神宮とのつながり)を結び、神明講(「しめこう」とも)などと呼ばれる伊勢講も始まり、伊勢参宮の条件は整っていった。

 江戸時代に入ると、伊勢講で伊勢参宮をする以外に、多くの庶民が一定期間にいっせいにお伊勢参りをする「ぬけ参り」が流行するようになった。移動制限のあった時代に通行手形などを持たず、村役人や雇い主に断らずに参詣することからそう呼ばれた。江戸時代の後半には、天照大御神の「おかげ」ということから「お陰参り」ともいわれた。慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)の「お陰参り」が有名である。

 大坂からのお伊勢参りには、四つのルート(伊勢別街道・伊勢本街道・初瀬(はせ)街道・伊賀街道)があった。上方落語『伊勢参宮神之賑(にぎわい)』では、奈良を観光して初瀬街道から伊勢に入り、帰路は東海道まわりで京都を観光するルートである。

 茨木からは、残された古文書では、往復とも伊勢別街道(草津を経由して関~津)が一般的だったようだ。宝暦9年(1759)の太田からの参宮(16人で3月21日から28日まで)を見ると、往路は太田→大津(泊 3/21)→石部(昼食)→土山(泊 3/22) →関(昼食)→津(泊 3/23) →松阪(昼食) →小俣(泊 3/24)。復路は伊勢→小俣(泊3/25)→松阪(昼食) →窪田(泊 3/26)→関(昼食)→水口(泊 3/27)→草津(昼食) →大津(泊 3/28)→太田となっている。往復で八日間。一人当りの旅費は、土産や参拝の費用などを除いて940文。(写真1~3)

 60年ほどのち、文化13年(1816)に忍頂寺から14人で参宮(4月5日から14日まで)した記録では、旅程は同じだが旅費は一人当り1267文。御師への謝礼などが含まれているのかも知れないが、高くなっている。旅籠代だけで比較すると、宝暦9年は一泊当り115文ほどで、文化13年には一泊平均157文。やはり高い。

 さらに50年ほどのち、元治元年(1864)に忍頂寺から6人で参宮(日数不明)した記録では、土産や参拝の費用などは不明だが、一人当り2900文。宝暦9年の3倍、文化13年の2倍を超える。江戸時代後半から幕末にかけて物価が騰貴したことはよく知られているが、身近な古文書を見ると、そのことが現実のこととして感じられる。

 突如として始まる御陰参りは、当時も民衆のエネルギーの発露と捉えられた。伊勢参りに向かう人々に、商人たちが粥や握り飯、路銀や宿を無償で提供したのは、単に信仰心を応援することが目的ではなかったはずである。いつか暴発するかも知れない民衆のエネルギーを恐れた・・・忍頂寺の人々が伊勢参りをした3年後、慶応3年には御陰参りが「ええじゃないか」に転化した。

宝暦9年『卯歳参宮算用帳』太田往古講文書より

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写真3

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