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2202403業平は溝咋・山蔭伝説

令和5年度の広場

令和6年3月 投稿

在原業平は溝咋をめざした

-「伊勢物語」と溝咋神社の伝承

本会会員 川添英一

 

 今年令和6年にはNHK大河ドラマ「光る君へ」が放映され、紫式部の生きた時代に清少納言を始め、藤原道長と共に藤原公任、藤原行成等が並んでいたり赤染衛門や右大将道綱母など百人一首の人達もいて新鮮な驚きで観ている。紫式部の描いた『源氏物語』は『伊勢物語』の影響を数多く受けている。伊勢物語の在原業平は光源氏のモデルともされる。

 さて、伊勢物語の第6段は『芥川の鬼』として著名なところである。

 昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじ

て盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ。」となむ男に問ひける。ゆく先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・胡簶を負ひて戸口にをり、「はや夜も明けなむ。」と思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや。」と言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

 

白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

 

 これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄、堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内裏へ参り給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返し給うてけり。それを、かく鬼とは言ふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。

 業平がまだ若き頃に後に清和天皇の皇后になる高子(たかいこ)をさらって芥川まで来た

が追っ手に高子が連れ戻されたという話である。何故に芥川まで来たのか、どの注釈書にも明らかにされていないが、私は、溝咋郷を目指していたと考えている。

 在原業平は父が平城天皇第一皇子阿保親王、母は桓武天皇皇女伊都内親王。業平の父

方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。阿保親王は薬子の変の事件がなければ天皇になっていたであろう非常に高貴な血筋の身分である。物語には「盗み出でて」とあるが、これは「さらう」というより駆け落ちであり、どこかで二人が暮らすことが目的だったと考えられる。都から芥川を経由する先に、その目的地が存在したはずである。

 目的地は、業平の血筋から推理することができる。それは父阿保親王の力がおよび二人が保護されるところ、すなわち、阿保親王の御位田のある溝咋郷だったのではないか。この時期に阿保親王の御位田があったことは溝咋神社に伝わる『暁鏡縁起』に書かれている。

阿保親王に関わる部分には以下のようにある。

 淳和天皇天長辰年天下大いに旱魃す。時に阿保親王の御位田地三島郡溝杭郷、百姓悉く水に渇し飢つかれ、嘆き悲しみのあまり親王へ此故をと願ひ、何卒雨乞の祭事なし給へかしと願上げれば、親王帝へ奏聞ありて即此鏡をば請ひ給ひ溝杭大神の御前にて是を祈りければ、其霊験ありて忽ち大雨降り萬民の喜び限りなく依って親王へ上げれば、人民は申すに及ばず、草木までも此御鏡の徳を蒙り、此上もなく有難き事なれば末の世までも此の国の氏神ともあがめたき所なれば、何卒此鏡此所へ被下置たまへと願いければ、親王尤に思召されて私ならず民の願いを奏聞ありければ帝事故なく願に任すべしと、則、天皇御鏡に溝橛大神と御しるしありて此所に被下置今の世までも此所の産土神と崇め奉り、雨乞の折は此鏡の蓋を取りければ其験あらずといふ事なし。

 天平元年の旱魃のおり、聖武天皇が、神前にこの鏡を祭り雨を祈れと勅され民が従っ

た。すると直ちに雨が降り枯れていた草木も再び芽を出すという奇跡が起こった。絶望し「闇の夜」のような日々を送っていた人々がこの鏡の徳で夜が明けたと感謝したところから「暁の鏡」とお呼びすることとなったという。

 祈雨の霊験が知られていたこの鏡を溝咋郷にもたらしたのが、領民の苦難を救おうとした阿保親王であり、親王が民の願いを天皇に奏上し聞き届けられたことで、鏡はこの地に伝わり「産土神」として崇め奉られることになったというのが、この記事である。

 御位田の民すべてが、情け深く頼りになる阿保親王に敬愛の念を抱いていたと考えて良いだろう。親王のお子である業平が、頼ってきたとき、粗末にするはずのない場所がここ溝咋郷だった。

 父である阿保親王の地で二人で暮らすことがめざし、溝咋に急ぐ途中、芥川の辺りで高子は連れ戻されてしまった。この駆け落ちが成功していたらと思うとワクワクするくだりでもある。百人一首17首目の「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の在原業平の歌は皇后になった高子の室を飾る屏風の絵に添えられていたというし、この駆け落ち以降も高子とは親しい交流があった。溝咋神社蔵の三十六歌仙図扁額と六歌仙図扁額はそのような関わりを知っての寄贈だったのか。三十六歌仙にも六歌仙にもある在原業平像は気高く美しくこの世をも見守ってくれているようである。

 伊勢物語の作者については諸説あるが、『小説伊勢物語業平』の著者の高樹のぶ子のいうように晩年に高槻の古曽部にいた伊勢であろう。元禄11年発行の『伊勢物語改成』にも作者は伊勢とある。百人一首「難波潟みじかき蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」の作者でもあり、晩年に住んだ高槻の古曽部には伊勢寺がある。

 

 溝咋(湟咋)の名は古事記にも日本書紀にも出て、溝咋神社も第十代崇神天皇の頃の創建と伝える由緒ある神社である。姫蹈鞴五十鈴姫命(伊須気余理比売)は初代神武天皇の妃であり、その母溝咋媛(勢夜陀多良比売)が大物主命(事代主命)と結ばれて生まれた故に神の子とされ、五十鈴姫の三男が第二代綏靖天皇に、次男の神八井命が祭祀を担当しこの国を守るとされ代々天皇と神社との繋がりの原点として皇室からも崇められてきた。

 この地も当初は皇室のものであり前述のように御位田であったりしたが武士の台頭で溝咋源氏の地となりやがて溝咋馬場村の地となって、神社も明治以降郷社という位置づけに止まった。

 東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が発見されるなど、茨木市域には古代から高度な文明があったようだ。溝咋神社も国生みの社として日本の国の誕生に関わったのではないかという想像を我々に与えてくれる。

 今では5月5日の春季例祭や10月第3日曜の秋季大祭、正月の初詣にお守りや御朱印の頒布などが行われているに過ぎないが、溝咋神社史研究所も併設され、古色蒼然とした本殿や長い松並木の参道など歴史を感じさせる神社である。皆さまの参詣をお勧めしたい。

​伊勢物語 「白玉か何ぞと人の問ひしとき…」
​暁の鏡 径19㎝ 厚1.6㎝
「暁鏡縁起」阿保親王乃御位田地三嶋郡溝咋乃郷…
溝咋神社蔵 三十六歌仙図扁額 在原業平
​伊勢御伝記 伊勢ハ右大臣内麻呂乃末孫…
令和6年2月 投稿

藤原山蔭伝説

-総持寺の建立説話と鉢かつぎ姫の物語

本会副会長 畠山眞悟

 

総持寺の建立と山蔭一族

 総持寺を建立したのは従三位・中納言・藤原山蔭で、山蔭の父藤原高房は藤原房前(藤原北家の祖)の子である左大臣藤原魚名の曾孫にあたる。山蔭は仁和4(888)年2月に65歳で薨じた。(注1)

 仁和2(886)年5月に仏師となった長谷寺の観音が総持寺の本尊となった千手観音像を完成させたが、材料の香木は唐からもたらされたという。総持寺創建の伝承を史実に重ねてみると『日本三代実録』貞観16(874)年に朝廷が唐で大神宿禰己井らに香薬を購入させたという記事があり、これは藤原山蔭が彼に黄金を授けて唐で白檀の香木を買い、それで千手観音をつくったという総持寺創建の説話と関連している可能性がある。(注2)

 のちに山蔭の子、中正の子(あるいは孫)の時姫は藤原兼家の正室となった。時姫は藤原道長や道隆の母である。また時姫の兄の安親は正三位参議、山蔭の長男有頼の子の在衡は左大臣となっている。藤原北家の傍流に過ぎなかった山蔭の子孫がこのように地位を向上させたことによって、総持寺も山蔭一族の私寺から摂関家ゆかりの寺となりついには986年一条天皇の御願寺へと飛躍的に寺格を向上させた。京都の吉田神社も同様で、山蔭一門の小社から10世紀末には春日社・大原野社とならぶ藤原氏の氏社となった。長谷寺験記に当代第一の文人、大納言藤原公任に よって書かれた総持寺の本縁起が存在するとあり、この時期に改めて縁起が作られた可能性を示している。(注3)

 山蔭一族の家系は時姫の娘たちが三条天皇、一条天皇を産んだことから「国母の母」の家、また花山天皇や白河天皇の乳母をだした家として朝廷で独特の位置を占めた。さらに子孫の安達氏から源頼朝の乳母、比企の尼も出ている。

 

総持寺創建の説話

 総持寺創建説話にはふたつのパターンがある。亀の命を助けたのが高房で亀に助けられたのが山蔭という話と、前者が山蔭で後者が如無(大僧正となった山蔭の子)という話であるが内容はほぼ同じである。総持寺創建に関する説話を紹介する。(注4)

  藤原不比等の5代の孫である越前守藤原高房がまだ幼い子の山蔭を連れて鎮西へ向かっていたとき、淀川の穂積橋のかたわらで鵜飼いが亀を殺そうとしていた。高房はあわれに思い亀を鵜飼いから買い取って放してやる。

 高房の船が淀川河口の港で泊まった翌朝、船を出したとき継母の指図で乳母が山蔭を海中に落とし、誤って船から落ちたとうそをつく。海は波風が激しくとても助けられそうにない。高房は悲嘆にくれ、日頃から信仰する観音に祈念し我が子を助けていただいたならすぐに千手観音像をお造りしますと誓った。船を戻して都に帰ろうとしたとき、海の上にに山蔭がいた。よく見ると昨日助けた亀が山蔭を甲羅に乗せていた。高房は観音のおかげと大いに喜んだが、千手観音像をお作りするという宿願は果たせないままに亡くなった。 

 成人した山蔭は父の宿願を果たそうとした。大神の御井という人が遣唐使となり唐に派遣されることになったので、山蔭は彼に砂金百両を預けて観音像をつくるための霊木を得るよう依頼する。御井は清涼山のふもとの川に数年光を放つ木があると聞き清涼山の仏母院に百両を施入してこの木を日本に持ち帰ろうとするが、唐の皇帝に木の持ち出しを禁じられた。御井はしかたなく木に次のような銘を刻んで海に流した。

「栴檀香木…これは日本国越前守藤原朝臣高房の御子が千手観音像を造り亡父の宿願を果たさんと誂えた香木。霊木の精霊、守護の冥衆よ、孝行な子を憐れみ無事に渡海させていただきますように。」

 山蔭が元慶5(881)年播磨守に任ぜられ翌年、任国に下向したところ、明石浦に不思議な木があるという。山蔭がこの木を引き上げさせると銘がある。程なく御井が唐から戻り、山蔭はこの由来を聞いた。感激した山蔭は木を都に運んで観音像を造ろうとしたが、摂津国嶋下郡の今の総持寺あたり、休憩のために木を下ろし、さて持ち上げようとすると全く動かない。山蔭が霊木に向かい「尊像を造り、この地に伽藍を建ててお祀りします」と誓ったところ、軽く動くようになった。こうして霊木は京の吉田に着く。

 山蔭は聖人をもって観音像を造り奉ろうとしたが、よい人が見つからない。山蔭は長谷寺に参籠し七日たった暁に、夢で尊い僧が現れ出て山蔭に「今朝最初に会う者を仏師とすべし」と告げる。外に出ると門前に14,5歳の童子がいた。鬢髪は乱れ、衣はぼろぼろ、風体は賤しげだった。しかし、山蔭はお告げを疑うべきではないと考え、夢告のことを話すと童子は喜んで仏像をお造りすると言い、約束の日、山蔭の屋敷にに現れる。童子は人々が疑うのを見て一日一夜で五寸の十一面観音を造る。これが総持寺にある試しの観音である。見事なできに人々も疑わなくなった。童子は「仏所に籠もって千日で千手観音像を造り奉る。その間、毎日一度お供えをせよ。決して仏所を見てはならない。」と言う。山蔭は約束通り、方丈に童子と霊木を入れ、窓から毎日一度のお供えを入れた。

 千日目の仁和2(886)年5月15日の暁、空中に声があり「長谷の観音はいらっしゃるか」と三度まで言うと、仏所から何者かが「口うるさい行基よな」と答えて仏所を蹴破り西へ去った。仏所の中には千日分のお供えと三尺の千手観音の霊像があった。こうして長谷寺の観音が童子の姿を現して造られたことが明らかになった。千日の供養の膳はひとつも失われず並べてあった。

 仁和4(888)年2月4日山蔭は亡くなり、山蔭の子どもたち七男七女が力を合わせて寺を創建し二つの尊像の道場とした。総持寺と号して寛平2(890)年父の三回忌に供養を遂げることがでた。夜、天に「此所は諸仏経行遊戯の地、菩薩以往利生の砌」と声がした。総持寺は三代合力の伽藍、三十三所の随一で、菩薩の願われた無双の霊地である。(後略)

鉢かづき姫と藤原山蔭 

 山蔭は『御伽草子』にある鉢かづき姫の説話にも登場する。かづきとは「被る衣」。かづくは「被る、頭を覆う」の意で、鉢をかぶった姫ということになる。それは次のような話である。(注5)

 

 昔、河内国交野に藤原実高という長者がいた。夫婦仲は良かった子供ができなかったので長谷寺の観音に祈願したところ、玉のような女子が生まれ美しい姫に成長した。ところが姫が13歳のとき母が病気になり、亡くなる前に姫の頭に手箱を載せ上から大きな鉢をかぶせたところ、どうしてもとれなくなった。

 母は亡くなり、父は再婚して継母がきたが、継母は鉢をかぶった姫をうとんじる。父も母の讒言を信じるようになり、姫は家を追い出されてしまった。世をはかなんだ姫は川に飛び込んで死のうとするが、鉢のおかげで身体が浮き、死ぬことができない。姫は漁師に助け上げられるが「鉢の化け物」とさげすまれ、みじめな思いをする。そこへ国司の山蔭三位中将が通りかかり、不憫に思った中将は屋敷に入れて風呂焚きをさせる。鉢を被った異形の姫はここでもみなからうとんじられた。ところが中将の末の四男の宰相殿御曹司が姫の美しさに気づき、姫を深く愛するようになった。宰相の母は息子と鉢かづき姫との仲を裂こうとする。宰相の気持ちが堅いのをみた母は乳母と相談し、宰相の兄たちと嫁くらべを行って鉢かづき姫をはずかしめ、結婚を断念させようと考えた。

 二人は屋敷を出ようとしたが嫁くらべ当日の明け方、頭の鉢が突然はずれる。姫の美しいことはたとえようもないほど。たくさんの宝物や十二単も手箱から出てくる。身なりを整えた鉢かづき姫が現れると、皆がその美しさに驚く。用意された粗末な下座に姫が座ろうとすると中将はあわてて自分のそばに招きよせた。手箱から出てきた宝物のおかげで中将と奥方への引き出物も兄嫁に優る立派なもの。あてがはずれた兄嫁たちは姫を困らせようと琴を弾かせたり歌をつくるように命じたりする。しかし姫は幼い頃に琴や歌を母から教えられていたのでどれも見事にこなしてしまう。

 姫は宰相の結婚相手として非の打ち所がないことが証明された。中将はたいそう喜び、宰相を自分の後継に決める。姫は宰相と結婚して三人の子にも恵まれた。宰相は出世して河内・和泉・伊賀三か国の国司となる。

 一方、姫の継母は使用人も去り夫婦仲も悪くなっておちぶれる。姫の父は家を出て、追い出した鉢かづき姫に会いたいと思うようになる。父が長谷寺に籠もっていると宰相の一家が参詣に訪れる。父は宰相の子たちが姫に似ているのに驚く。やがて姫は父に気づき二人は再会を果たした。そして、これらのことはみな長谷の観音のおかげであると深く感謝して幸せな生活を送った。

 

山蔭伝説

 鉢かづき姫の説話に登場する山蔭中将は総持寺を建立した藤原山蔭と同一人物と考えられる。山蔭の官位は従三位中納言であるが、近衛権中将の経験もあるので山蔭三位中将という表記は間違いでない。また鉢かづき姫ゆかりの寝屋川と総持寺のある茨木は淀川をはさんで近い。山蔭には七男があり、鉢かづき姫の婿となった人物を四男とすると正五位下左近衛少将藤原言行、末の男子とすると従四位上左京太夫摂津守藤原中正になる。金谷信之氏は宰相を如無とし、鉢かづき姫を如無の実子在衡の母である備中掾良峯高親女に比定して、その子の在衡が従二位左大臣にまで出世したことが物語に投影していると主張する。(注6)

 私は鉢かづき姫の話を素直に追うと摂津守である中正を宰相としたほうがよいと思う。この場合、鉢かづき姫は伊勢守源友貞女となる。

 総持寺縁起にある霊亀や長谷寺観音の伝承と鉢かづき姫の話は、ともに継子いじめの話であり、長谷寺の観音の霊験をたたえる話であることは共通している。また山蔭は四条流包丁式の創始者としても知られている。さらに山蔭子孫からは奥州の伊達氏をはじめとして多くの武家が生まれている。藤原山蔭は多彩な説話・伝承に彩られた人物であった。 

 

  注1 洞院公定『尊卑分脈』14世紀後半

  注2『新修茨木市史』第4巻p39

  注3『新修茨木市史』年報第五号所収 芦田淳一「平安時代の総持寺」p12以下

  注4 『新修茨木市史』第4巻p40以下「長谷寺験記」下巻 第13による

  注5 市古貞次校注『御伽草子(上)』岩波文庫1985年の「鉢かづき」による

  注6 HP上の論文 金谷信之「総持寺縁起と鉢かづき姫の史的背景」

現在の総持寺山門
京都吉田神社内の山蔭神社
​亀の背に乗る山蔭 昨日助けた亀が我が子を甲羅に乗せていた
総持寺境内池の亀
大きな鉢をかぶった姫
​寝屋川市ではマスコットキャラクター「はちかづきちゃん」としても親しまれる
総持寺の山蔭流包丁式
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