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令和4年度の広場

20230327
令和5年3月27日 投稿
茨木神社の本殿造営史(茨木 岡市)

 - 茨木神社の本殿造営史 

 ~御本殿創建四百年記念事業「令和の大造営」を完遂して~

     本会会員 岡市 正達

【はじめに】

 茨木神社の創建は、大同2年(807年)に天石門別神社が現在の茨木市宮元町付近に鎮座したことに始まると伝えられています。延長5年(927年)に完成した延喜式巻第九の神名帳にも、摂津国嶋下郡十七座の一つとして記載されている天石門別神社は、茨木村の氏神として篤い信仰を受けてきました。

 時代とともに周囲の開発と荘園化が進み、現在の大手町付近に分村が生まれ、この分村集落に「素盞嗚大神・春日大神」が奉斎されたと考えられます。さらに、この地の有力者が「茨木氏」を名乗る地侍に成長し、「八幡大神」を奉斎しました。この頃には人口の増加とそれに伴う住居範囲の拡がりにより、それまでの農村的集落から多くの人々の生活を支える商業の混成した町へと拡大発展してきました。

 戦国時代末期頃には城下町が形成されるに及び、それぞれの場所で奉斎されていた大神様は、現在地に遷座されることになります。

写真① 文禄2年本殿棟札

【現在の本殿形式の成立】

 まず現宮元町に鎮座していた「天石門別神社」が現在地へ遷され、続いてその社殿に現大手町に鎮座していた「素盞嗚大神・春日大神」が奉遷されました。また「八幡大神」は社殿ごと現在地へ遷されました。

 この時期の社殿において、葺替時に作成された棟札が【写真①】です。これは文禄2年(1593)9月10日に、「主祭神:天石門別大神、相殿:春日大神・牛頭天王」という三柱の神様をお祀りする社殿の屋根の葺き替えが行われた記録です。またその際、「八幡大神」は別の社殿でお祀りされていたこともこの棟札より分かります。

 その後、元和8年(1622)9月10日に「主祭神:牛頭天王、相殿:春日大神・八幡大神」という三柱の神様をお祀りする新たな社殿を造営し、これを本殿としました。(屋根は、おそらく柿葺(こけらぶき)であったと推測されます。)同時にこれまで主祭神であった天石門別大神を約20m北へお遷し申し上げ、奥宮としました。この形式が、現在に至るまで茨木神社の社殿配置の基本となります。この新本殿造営時に作成された棟札が【写真②】です。

写真② 元和8年本殿棟札

社殿勾欄擬宝珠銘
「于時 元和 八壬戌暦」

【元和8年以降、明治初期までの本殿】

 本殿の屋根は元和8年以後、定期的に葺き替えられていくことになります。当神社には、これ以後の屋根葺替や社殿造替に関する棟札が多数保管されています。また現在の茨木市福井地区に本拠地を構えた福井大工組がこれらの事業の多くに関与していることから、そこに伝わる古文書からも、造営史を読み解くことが出来ます。

 まず宝永2年(1705)には、柿葺から同じ柿葺へ葺き替えられました。その約35年後の元文5年~寛保元年(1740~1741)には、屋根が柿葺から新たに檜皮葺へと葺き替えられました。これ以後、昭和4年に銅板葺となるまで、全て屋根は檜皮葺となります。

 これから約35年後の安永4年~5年(1775~1776)には、屋根が葺き替えられただけではなく、本殿の社殿が大きく「建修復」されました。まず瓦葺きの祝詞門が正面に新たに造営されました。(これは、後に本殿裏側に移設され、唐門として現存しています。)さらに土蔵や社人詰所も新たに建設されるなど、本殿周辺の様子が大きく変わる事業でした。これを記念した石灯籠が、現在でも本殿瑞垣内に残っています。この時の棟札が【写真③】です。その後寛政4年(1792)、天保10年(1839)、明治2年(1869)と定期的に屋根の葺き替えが行われています。

 寛政年間(1789~1800)に出版された「摂津名所図会」に描かれた当神社の様子が

【写真④】です。安永の造営によって建造された祝詞門や土蔵・社人詰所なども描かれており、江戸時代後期の神社の様子がよく分かります。

写真③ 安永5年本殿棟札

【明治13年以降、令和2年までの本殿】

 当神社の本殿にとって、大きな転換期となるのが明治13年(1880)の造営です。この造営事業では幣殿(神職が祝詞を奏上する社殿)と拝殿(参拝者が祈祷を受ける社殿)が新たに造営され、屋根は本殿と同様の檜皮葺となりました。その後、明治30年(1897)は本殿の屋根が、明治42年(1909)には幣殿・拝殿の屋根が葺き替えられました。

 昭和4年(1929)には、本殿・幣殿・拝殿全ての屋根が、檜皮葺から銅板葺に葺き替えられました。この頃の当神社の様子が描かれたものが【写真⑤】です。境内西側にある茨木川の流れや、豊かな鎮守の杜の様子がよく伝わってきます。

 そして平成5年(1993)には、本殿内陣の改修新装工事を実施しました。この時期の社殿を撮影した写真が【写真⑥】です。

【令和の大造営】

 令和4年(2022)は、元和8年の本殿創建から丁度四百年を迎えることから、この佳節を記念して御本殿創建四百年記念事業委員会を組織し、「令和の大造営」を実施しました。本殿は、これまでの時々の修復と同様に損傷箇所のみの修復としました。一方、幣殿及び拝殿は明治13年の造営以降約150年が経ち損傷が著しく、また拝殿は高床であり昇降の不便解消のため土間として全面造替しました。竣功した社殿の写真が【写真⑦】です。

 幣殿の天井は、本殿正面の荘厳な意匠を拝観するため「破風天井」という特徴ある工夫がされていることから、そのまま古材を用いました。また随所に先人達が用いた工法や飾り物を踏襲するとともに、基壇上の昭和15年(1940)の皇紀二千六百年を記念して設置された石玉垣も、修理の上そのまま用いました。

​ 私達の先人達は、その時代における義務として、また感謝と誇りを感じて修復を繰り返し実施して、今日に伝えてこられました。私達も感謝を込めて、先人達の氏神さまへの「こころ」を次代へ踏襲すべく実施しました。

写真④ 『摂津名所図会』
(「茨木明神社」の絵図)

写真⑤ 茨木神社境内絵図
(日垣明貫画伯・昭和4年作成)

写真⑥ 昭和4年~令和2年の社殿

写真⑦ 令和4年以降の社殿

20230211
令和5年2月11日 投稿
「北川水路」界隈物語(沢良宜浜 中井)

「北川水路」界隈物語

本会会員 中井 晃

 茨木市には歴史的に有名な水路として権内水路(車作)や五社井堰水路・一ノ井堰水路(安威)が知られている。

 茨木市南部の淀川や安威川流域の低湿地帯にも用排水用の水路が多くあるが、歴史的な背景があまり紹介されておらず自然の河川と思われている傾向にある。その中でも江戸時代の絵地図に描かれ(写真①)今も水利上大きな役割を果たしている歴史的な北川水路やその界隈の水路を考察してみる。

*古記録にある「悪水(あくすい)」は、汚染水の意味ではなく、田んぼからの余った水の排水をいう。稲の生育に合わせた水田の水管理のためにも排水路の確保は重要なことであった。また「井路(いろ・いじ)」は人工水路の古い呼び名で、現在は「水路」を使う。

主な神安土地改良区管轄の水路(長さは『水土里ネットしんあん』による)

写真①

◎北川水路(3,415m)

 茨木市の南部、安威川流域の低湿地帯の村々は昔からちょっとした降雨によって河川が洪水氾濫したり、水はけが悪くて悪水滞留による被害に悩まされていた。

 特に安威川右岸の野々宮・島両村は海抜3~4mと土地が低いため被害が大きく、寛永年間(1624~44年)に両村が共同で村の周囲に囲堤(かこいづつみ)を造って水害に備えた。

 この堤防の北部分は「横手堤」(写真②)と呼ばれ、堤防に沿って南西し、島村北側を通過し沢良宜浜南側の横江から安威川方面に南下する水路が開削された。これが北川水路(写真③島・光善寺附近)である。今も横手堤の一部が野々宮地区で桜並木として残っている。

 北川水路の成立時期は不明であるが、囲堤造成時期と同じ頃と考えられる 。延享4(1747)年の『内瀬村村況書上帳』(『新修神安水利史史料』)に、悪水抜神崎川逆水堤防(横手堤のこと)の長さ130間(234m)、悪水抜井路(北川水路のこと)の長さは1300間(2340m)、幅3~9間(5~16m)と北川水路の事が記載されている。

​写真② 横手堤 (昭和17年の航空写真)

 昔、北川水路は安威川と繋がっており、島の村人は舟で北川水路から安威川・神崎川経由で大坂天満市場へ行き地元で採れた野菜や藁製品などを売り、帰りは屎尿を持ち帰る無駄の無い商売を行い両方から利益を得る水運の水路でもあった。井路筋絵図(島区有文書)にも水運にかかわる地名「津之辺」「舩津道」(写真④)が記されている。

 現在の北川水路は三箇牧揚水機場から淀川の水を取水し、十一中水路、十丁畷水路、内瀬水路、高瀬川水路等からの流入により水量も多くして南下し、摂津市鶴野の二軒家で安威川を伏せ越し番田水路に流入している。

​写真③ 島・光善寺付近の北川水路

​写真④ 井路筋絵図に残る地名

◎三ヶ牧水路(5,300m)

 三ヶ牧水路を含む淀川右岸中流域は弥生時代以降、豊かな淀川の水量を背景に水田稲作を中心に農耕文化を育んできた。しかし、淀川の氾濫や排水不良に苦しめられた低湿地帯でもあり、そのため中世以降縄手と呼ばれる小堤防(輪中堤)でそれぞれの地域を囲み周辺からの排水を受け入れない構造とし、区域内の排水を全て下流の河川に流していたので村と村との水争いが絶えなかった。

​ これらの状況を改善するため、安土桃山時代の後半(天正16年)、それまで誰も試みる事がなかった他の区域にまたがる水路開削事業を代官安威摂津守の裁許を得てなされたのが三ヶ牧水路である。(高槻市西面中1丁目設置の案内板より)

 この水路は三ヶ牧組(柱本、西面、三島江、唐崎村)の悪水を安威川左岸沿いの島村領内(居村は対岸)に落とされてきたが、溝筋が土砂で高くなり排水が困難となったため鳥飼郷八丁村方面へ流し鳥飼水路に合流させてから安威川に流出させるものであった。その後、安威川下流の川底も高くなったため、安威川を伏せ越して西南に伸ばし神崎川へ排出させた。

◎番田水路(9,412m)(玉川)

 淀川と芥川に囲まれた番田村をはじめとする地域(番田組)は河底の方が地面より高位にある低湿地帯のため洪水に遭いやすく、河川の氾濫や堤防が障害となって日常的に水はけが悪いなど、留まった悪水の排出に悩まされていた。悪水は番田村において直接淀川に排出されていた。

 慶安3年(1650)高槻は大洪水に見舞われ、淀川沿いの村々では収穫が半減するなどの被害を受けた。これを契機に、翌年から高槻初代藩主永井直清により番田水路(排水路)の掘削が行われ、番田6千石の開発がなされた。すでに天井川になっていた芥川に、長さ57間の伏越樋「木製樋管・大樋」を設置し、芝生村、唐崎村、三島江村、柱本村の田地に1里にわたって井路を掘削し、番田組の悪水は柱本村領で淀川堤防の伏越樋、並びに淀川内に480間の井路を経て排出された。番田水路は承応2年(1653)に完成した。

 その後、柱本村付近の淀川の川底も高くなったため、排水の役目を果たすことが難しくなり、大坂町奉行所の許可ののち、治水工事で数々の功績を残した河村瑞賢の監督で更に新水路を3里余り延長し玉川・安威川を経て神崎川へ排水する新しい番田水路が元禄13年(1700)に開削された。これにより、柱本村から淀川への排水路は破却された。

 明治に入り、神安普通水利組合の力で数々の水利工事がなされたが、その一つが明治42年から5年かけて安威川の右岸に新河道を開削し、安威川の新しい流れとしたもので、番田水路を旧安威川河敷を利用して安威川から切り離し現在に至っている(写真⑤)。

写真⑤

摂津市鶴野橋から西方向を撮影。

​左が番田水路、右が安威川。

 玉川橋から南に延びる直線の番田水路上流(写真⑥)は7~8世紀に採用された条里制の跡を今に残し、島上郡(高槻市)と島下郡(茨木市)との境界線でもある。

写真⑦

摂津名所図会

​「玉川」

 番田水路(玉川)が流れる玉川の里は水量も豊かで「摂津国三島の玉川」として「天下六玉川」の一つに数えられ(写真⑦『摂津名所図会』)、古くから歌枕に使われた風光明媚な土地で、玉川の里を歌っている古い本に平安時代編集の『後拾遺和歌集』がある。このことから玉川は千年以上の歴史をもつ川と言えるが、川の流れは長い歴史の中で変化しており昔の位置は不明である。

 郷土史家、宇津木秀甫氏が描き出す「摂津御島玉川湖沼想像略図」(『三島鴨神社史』)では玉川が太田附近の旧安威川から分岐して疣水磯良神社の西を東南へ流れ玉川湖沼経由淀川に流入している。西河原村にはこの流れは「玉川」であるという古文書(写真⑧赤「」部分、大西家由来書)がある。

 疣水磯良神社の伝説では神功皇后が三韓征伐で祈願したのは西河原の新屋坐天照御魂神社とされるが、西面の伝説では神功皇后が三韓征伐に集結したのは西面城(目垣城の外城で西面代官が居城)で、当時は湖沼だったために玉川を上って「西ヶ原」に新陣屋地を求めたと言われている。

(『情報誌きつつき21』より)

写真⑧

​大西家由来書

​…この末流の川ありて西川原村に至り玉川とよび侍る

​写真⑥

市民憩いの場 番田堤防と水路

◎高瀬川水路(1,848m)

 茨木市三咲町のポンプ場付近に流れ込む治良川(地蔵川とも呼ばれる)から茨木川を伏せ越して田中町、茨木斎場前を南下し茨木別院の東側、阪急京都線をくぐって更に南下し島の北側で北川水路に合流している。斎場の南からは「高瀬川せせらぎのプロムナード」と呼ばれる遊歩道が茨木別院付近まで続く。上流は茨木市が管轄し、佐奈部神社近くの交差点からは神安の管轄となっている。水尾、真砂、内瀬村の用水路であったが、昔は高瀬舟が行き交う川底の浅い水運の水路であった事から高瀬川と名付けられ、茨木北市場の商品が運ばれたり、島方面への旅人の足となっていたと伝わっている。

■ 安威川の淀川合流計画

 安威川は北摂山地から大阪平野に流下する淀川水系の河川である。佐保川と勝尾寺川を合わせた茨木川を合流し、野々宮付近で南西に流路を変えている。上・中流では灌漑用水の樋を設けて水田の灌漑に利用した。その代表が安威付近の五社井堰や一ノ井堰である。低湿地帯の下流では度々の決壊や悪水に見舞われていた。すでに江戸時代に安威川決壊を無くす目的で安威川を淀川に直結させる絵地図(写真⑨)が残されているが、この計画は実行されなかった。

写真⑨ 絵図「攝津國嶋上・嶋下郡悪水落川違御願」(文化元年)下流の部分

「絵図で楽しむ茨木」(茨木市文化財資料館発行)から引用

注「伏せ越し」

(ふせこし、ふせごし、伏越)は、水路工事における工法・技法、およびそれによる工作物をいう。用水・排水の水路において、他の河川や水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させ、下流へと水を導くようになっている。

注「神安土地改良区」(事務所:茨木市双葉町12番22号)

 明治18年水利土功会が設立し島上、島下郡長により管理されていたが、明治23年の水利組合条例の布告により、明治28年区域の最も重要な神崎川と安威川の一字ずつを取り、神安普通水利組合に改組。その後、土地改良法の施行に伴い昭和26年に神安土地改良区に組織変更され現在に至っている。神安土地改良区の区域は淀川右岸に位置する高槻市や茨木市の南部、摂津市南東部、吹田市南西部に至る旧称三島平野の大部分を占める。揚水機場28ヶ所、用水路合計85ヶ所、排水路合計48ヶ所、延べ139kmの長さで地域の用水は淀川(一部安威川)を水源とし、農業生産は主として水稲栽培である。

主な参考文献

 神安水利史編纂委員会『新修神安水利史史料』 昭和56年

 茨木市史編さん委員会『新修茨木市史』茨木市 平成28年

 高槻市史編さん委員会『高槻市史』高槻市 昭和59年

 茨木市教育委員会『わがまち茨木・水利編』茨木市 平成3年

 高槻市教育委員会『高槻の史跡』高槻市 平成18年

 中川種次郎『西面村の歴史』 平成14年

 中川種次郎『三箇牧井路の歴史について』 平成19年

 中川種次郎『番田井路乃歴史について』 平成18年

 三島鴨神社史編纂委員会『三島鴨神社史』三島鴨神社 平成18年

 渕埋山光善寺『光善寺の歩み・蓮如上人とともに』 令和4年

 きつつき21編集室『きつつき21』(株)笹井コーポレーション 月刊タウン誌

歴史の広場20220615
令和4年6月15日 投稿
茨木の中世城館(耳原 田中)

茨木の中世城館「方形館」

本会理事 田中裕三

 

中世の宿久庄には地域を支配した「悪党」の城館=方形館があった

 

1 中世を牽引する者たち

 永仁元年(1293)の末、宿久六郎らは勝尾寺領内の山中で鹿を狩り、境内でその鹿を解体した。僧侶たちが制止すると、六郎らは悪口雑言のうえ、矢で射る構えをして威嚇したという。さらに年明けには僧侶を捕え殺害する。勝尾寺はこれを朝廷に訴え(図-1)、「国中悪党乱入狼藉」を停止する旨の勅諚を得た。(『勝尾寺文書』)

 「悪党」とは、実力行使によって寺社や公家の荘園を侵食し、新しい社会秩序をめざす在地領主、新興商人、有力農民らをいう。彼らは鎌倉幕府の弱体化を背景に、一族や下人を中心に武装化し、地域住民の支配や流通運輸の独占化を進めていく。「悪人」と「強者」の境界は曖昧である。このような古い秩序に挑む「悪党」の姿こそが「宿久六郎」である。

 茨木の旧家に残された『摂州島下郡五ヶ村高反別記』(堀家文書)という古文書に、宿久六郎のことが記されている。この古文書は、江戸時代の茨木にあった美濃加納藩五か村の概要を記したものである。そこには、宿久庄村庄屋の弥惣右衛門の先祖は宿久丹波といい、その古宅は宿久庄東村の「字厨」にあったと書かれている。そして丹波の嫡男が宿久六郎であり、六郎は「字厨」から鳥羽の「字城ノ腰」に居を移したとある。(図-2)

 

2 土地に刻まれた方形館の痕跡

 『新修茨木市史』第8巻には、茨木市域全村の地籍復原図が地籍図原本や空中写真とともに収録されている。全国的な地籍調査は、明治以降2回実施されている。1回目は明治初年の地租改正に伴う地券証発行のためもの、2回目は明治中期の土地台帳制度施行に伴う地籍調査である。『新修茨木市史』に掲載されている地籍図は、2回目の地籍調査の時に作成されたものである。

 宿久庄村の地籍復原図をみると、東村の南、小字「藤ノ森代」には明らかに周囲の土地区画とは異なった地割りが見て取れる。(図-3)帯状の地割りに囲まれた、ほぼ100m四方の方形の区域である。さらに、昭和15年に宿久庄村で作成された『大野係畝割番水帳』(田圃への配水順を決めたもの)をみると、この方形地割りには「城之口」「城の前」「馬場」「西の口」など「城」を想起させる地名が記されている。昭和30年代に国土地理院が撮影した空中写真をみても、この区域に明確な方形区画が確認される。(図-4)

 地籍復原図や空中写真を点検すると、宿久庄以外にも茨木(図-5)、三宅(図-6)、泉原で方形館の痕跡と思われる地割りが見て取れる。

 

3 中世方形館とは

 「方形館」とは、一般に土塁と濠に囲まれた方形の武士の居館をいう(図-7)。近年、中世遺跡の発掘事例が増えるにつれて、「方形館」についての知見も蓄積されてきた。しかし、方形館の始まりについては平安時代末期とする説や鎌倉時代中期とする説、さらには南北朝時代とする説など、まだ定説はない。戦国時代まで存在したものには、主郭の拡張や副郭化など防御機能の強化がみられ、その典型例が武田信玄の「躑躅ヶ崎館」である。(写真-1)

 宿久庄の方形館跡は、鎌倉時代中期以降の実力主義の世を背景に、宿久六郎のような在地領主が方形の土塁の内に屋敷や倉など幾棟かの建築物を設けて居館を城館化し、さらには地域支配の象徴とするために築いたものだろう。あたり一面に広がる田園風景の中で、濠と土塁に囲まれた城館にはインパクトがある。また、周囲に廻らされた水堀は周辺農地の主要な水路につながり、地域の潅漑水利を管理する役割があったともいわれる。さらに、交通路の近くに立地しており、流通運輸を支配しようとしたとも考えられる。

 

4 方形館の消滅

 15世紀になると、村落が防衛のための集村化を進める動きの中で、方形館の主は村落を取り込む形で集落全体を城塞化していく。城館と集落の一体化は、集落の防御性をより一層高める。「字厨」から「字城ノ腰」への移転は、散在する周辺の家々を丘陵部に集め、自然地形を利用して集落全体を城塞化したと考えられる。市域では、安威城にその典型を見ることができる。一方、茨木のような地域の中心集落の方形館は、町場と城館が一体化した惣構えの城を形成していく。

 市域に散在していたであろう方形館は、16世紀に入ると、安威や宿久庄、福井のような大集落、茨木や三宅のような都市部を除き、戦国大名が地域を掌握する過程で消滅したのではないか。村落を支配していた方形館の主=在地領主層は、より強大な力を持つ国人領主(成長した在地領主)の被官となり、集落支配の象徴である方形館はその役割を終える。

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図-1勝尾寺住侶等申状案(宮内庁書陵部影写本)部分
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図-7
令和4年4月14日 投稿
玉之井縁起(西河原 木村)
歴史の広場20220414

疣水磯良神社と『玉之井の縁起』について

本会理事 木村威英

 

 会報23・24合併号の表紙写真は疣水神社世話方の家々が伝え守ってこられた『玉之井の縁起』の一場面です。ここに描かれている井戸は西河原村に湧き出る霊泉「玉之井」(「疣水」と称される泉)のスケッチではなく、龍宮城にあるという「玉之井」(「しろかねの井筒」)の姿です。寺社縁起はその神社や寺院の発祥についての神話・歴史を語ろうとするものですが、『玉之井の縁起』は性格が異なります。

1 先行研究と私の視点

 『玉之井の縁起』の文化財、絵巻物として価値についての研究には日沖敦子氏の研究「大阪府茨木市磯良神社(世話方七軒)蔵「玉之井の縁起」絵巻について」(平成24年『伝承文学研究』61号)があります。氏は、世話方が持ち回りするという保存形式についても「元来は神の憑代を交代で神主役の人が預かると考えられてきた」こととつながると指摘されました。

 私は地元、西河原の住民として「なぜこの絵巻物がここ西河原、疣水神社世話方に伝えられているのか?」について述べたいと思います。

2 新屋郷、西河原村と磯良神

 磯良神がこの地に祀られる由来についての定説はないようです。磯良神社の先代宮司が、就任時、九州に調査に赴かれたと聞いていますが、確かな結論には至らなかったそうです。少なくとも江戸時代の初めには氏神として崇敬されていた「新屋森大明神」の祭神七柱に「磯良大明神」の名が明記され、社にもシンボルとして法螺貝の彫刻がなされています(寛文九(1669)年)。

 

3『摂津志』『摂津名所図絵』の疣水についての記述 

 江戸時代初期段階での磯良神と疣水との関係を明示する資料は現在のところ未見です。『摂津志』(享保20(1735)年刊)には「玉ノ井在西河原村新屋神社古跡」とあり、『摂津名所図絵』(寛政8(1796)年刊)にも「便(よるべ)の水」として、疣水が紹介されるものの「西河原村新屋社の東南一町許にあり原(もと)此所は新屋神社の神籬の内なり。(中略)天照御魂社の神水なれば面貌の疣にも限らず邪念の穢れも清め洗ふ時はなどか美とならざらんや」とあって、磯良神への言及は見られません。

 一方、享保の頃に書かれたと考えられる『摂津国古記所在目録』には「新屋神社ノ内イソラノ社ノイホ井(磯良の社の疣井)ヲ玉ノ井ト云」という記述が残り、磯良神と疣水につながりを認める見方が既に存在したことを伺わせます。

4 神功皇后の伝説と磯良神・龍宮

 疣水と磯良神の結びつきには神功皇后三韓征伐の伝説がその背景にあります。

 磯良神が三韓征伐において勝敗を決する役割を果たされたという神話は記紀の記述には見いだされません。古事記では神功皇后は神の言葉を伝える「巫女」として描かれており、軍勢を率いる将軍というイメージからも遠いものです。広く知られるようになる「神功皇后三韓征伐」の物語は『太平記』によるものと考えます。

 『太平記』には神功皇后が神々を呼び出されたときに磯良神だけが現れなかったというエピソードがあります。なぜすぐに現れなかったのか? 神々が磯良神の「細螺(したたみ)・石花貝(かいらぎ)・藻に棲む虫、手足五体に取り付きて、さらに人の姿にてはなかりけり」という姿に驚かれるという記述の後、神々の「なにゆゑかかる貌(かたち)には成りけるぞ」という質問に答える磯良神の言葉が続きます。「われ滄海の鱗(うろくず)に交はりて、これを利せんために、久しく海底に住みはべりぬあひだ、この貌に成りて候ふなり。かかる形にてやんごと無き御神前に参らんずるはづかしさに、今までは参りかね候ひつる」海に住む生き物たちの守り神として長く働いていて、気がついたら巻貝、蛎殻(鮑?)、その他いろいろな虫(イソギンチャクや、フジツボの類か?)がくっついていてこんな姿に、恥ずかしくて尊い神々の前に出ることができなかったというわけです。

 春日大社ほか各地に伝わる舞踊(磯良舞・細男舞)では磯良神は顔を白布で覆う姿で表現されています。「異形の神」とされる神々は他にもいらっしゃるでしょうが、顔を隠す「恥じらわれる神」という姿こそが、あらゆる疣、できものを除くという「疣水」の霊威と結びついたのでしょう。

 この霊水の御利益を求める人々はわが身にとりついた異物「疣、できもの」に苦しむ…というところで、この神話に共感し、逆に、磯良神こそがこのつらさに対する深い理解の上で、利益を授けてくださると考えました。江戸時代の終わりには疣水の畔に磯良神を祀る祠が新屋森大明神から分祀されて「磯良神社」として存在し、磯良神に祈願して霊水をいただくことで、願いが叶えられるという信仰は確立されていたようです。それは、この霊水と磯良神に救われた人々が数多く存在したことを示します。

5 磯良神の分祀

 磯良神の分祀がいつかということも、正確なところはわかりません。文化11(1814)年に写した…という旧家の記録(『大西家由来書』)に、神功皇后が出征の折、疣水で顔を洗われたところ、その美しい顔を変じて醜い、敵を威圧する「戦神」の容貌を得られ、帰途、再びこの泉で顔を洗われて、元の姿に戻られたという神話が記録されています。この神話の成立と磯良神の分祀は同時期のものかも知れません。

6 磯良神の神威の象徴

 さて、太平記に描かれた神功皇后と磯良神の物語では磯良神の姿形とともに、磯良神の龍宮との関係が描かれます。磯良神の魚たちの守り神としての実績があって、龍宮から干珠・満珠がもたらされる。そして、海に満ち引きを起こすこの二つの宝珠が切り札となって、神功皇后率いる軍勢は勝利をおさめます。

 これは祇園祭の船鉾の神像に具象化されています。鉾の上に は皇后の神像と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像(太平記では磯良・住吉・諏訪)が安置されますが、でこぼこした容貌に刻まれた磯良神は干珠・満珠を捧げ持つお姿です。

 『玉之井の縁起』の話にもどりましょう。この絵巻は「龍宮」「干珠・満珠」がモチーフとして重なる物語。一般的には「海幸彦・山幸彦」のお話として知られる物語が描かれています。山幸彦は干珠・満珠を操ることで兄の海幸彦を屈服させ皇位の継承者となります。干珠・満珠を操ることで三韓の王を屈服させる太平記の伝説と同じ展開です。

 この絵巻物は元々、中城村の常称寺に伝えられていたもの。明治34年、世話方に譲られたという「譲状」が残されています。

 霊泉の畔(現在「旧社地」として玉垣に囲まれたところ)に、祠はあり、磯良神に祈願して泉水をいただき霊験を恵まれる方も多かった。しかしながら、明治初年、その神威にふさわしい社殿は備わっていませんでした。そこで明治33年、世話方の家々は西河原村の総意をまとめて社殿を建立されます。

 西河原村では既に、氏神(新屋坐天照御魂神社)に『新屋森大明神縁起』が、西河原薬師堂に『紫雲山福満寺縁起』が伝えられていました。世話方の方々(氏子、薬師講の講員とも重なります)は、神威にふさわしいものを奉納したいという思いから、社殿とともにこの絵巻物を「縁起」として神前に捧げられたのでしょう。干珠・満珠は、太平記の伝説によって、磯良神の示される超自然の神威・パワーの象徴としての意味を帯びていたと思われます。

7 まとめ 

 明治33年の棟札に「磯良神社新築係世話人」として名を残された方々と、玉之井縁起の持ち回り輪番を定めたメモは代替わりや表記の違いはあるものの完全に一致し、これは現在の世話方の家々にもつながります。明治33年は、村立三島小学校が磯良神社南の現在地に開校した年でもあります。校歌には「名だたる御寺、御社を里の誇りともちたれど」と歌われ、「名だたる御社」とは疣水磯良神社のことと教えられたと聞きます。

 明治期に「神功皇后三韓征伐」の神話が、国史として教えられるようになると、神話らしい神話は敬遠され、歴史的な事象のように読むことのできる神話が尊重され、創り出されていきます。現在の磯良神社の略縁起でも、太平記に伝える磯良神の活躍は記載されず「神功皇后の水先案内をつとめられた」と、国史として受容される書き方がなされています。

 当時の事情については推測の域を出ませんが、明治期に「新時代にふさわしくない」と破却された文化財が数多くあるなか、この絵巻物を守り、非常に優れた保存状態で現在に伝えていることは、西河原の誇りとして良いと思います。

湯津の花咲おもしろかりけり。立より見たまへは、しろかねの井筒あり。
『摂津名所図絵』所載「疣水」の図版に着色
​磯良舞・細男舞の磯良神
大西家由来書
 神宮皇后三韓御征伐の御時、龍顔殊更美艶に渡らせ給うゆえ、叡意をめぐらさせ給うに、武意いくさかみの御かたちに玉体を変させ給わんとて…(後略)
​船鉾の磯良神像
『玉之井の縁起』に
​ 描かれた干珠・満珠
譲状
縁起持廻リ順番
明治33年
​磯良神社社殿新築時の棟札

 *磯良神社(通称疣水神社)

「疣水さん」と親しまれ広く知られるため

疣水磯良神社」という表記も用いられています。

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