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講  演  会

その時々で話題になった歴史的テーマや関心の高い茨木の歴史を選び、おもに外部から講師を招いて講演会を実施しています。

令和6年度講演会

令和6年度

令和6年5月12日 総会記念講演会 於おにクル

 演題:茨木の近代―キリシタン遺物発見と「継体天皇陵」治定(じじょう)​をめぐる学問―

 講師:高木博志さん(京都大学人文科学研究所教授)

講演要旨

 茨木は古代以来、交通の要衝として発展し、中世には城下町として、近世には在郷町として栄えた。近代に入ると、鉄道の敷設によって茨木駅が開業し、三島郡役所(*注1)や旧制茨木中学校、茨木高等女学校が置かれるなど、三島郡の中心となった。とりわけ大正から昭和戦前期にかけて、高橋周辺には周山堂などの出版社、日吉座などの芝居小屋、かさう楼などの料亭が建ち並び、三島地域の政治・文化の中心地の様相を呈していた。

 このような時代に、川端康成や大宅壮一は茨木中学で学んでいた。茨中では「質実剛健」を旨として国民道徳を重んじ、厳格な規範を生徒に課した。そんな校風に、川端は谷崎潤一郎などの耽美な文学に傾倒して京都の祇園をさまよい、大宅は米騒動の現場を歩き回って放校になるなど、ともに茨中の体質とは合わなかった。

 同じ時期、郷土史家の天坊幸彦(てんぼうさちひこ)(*注2)は茨中の地歴科教員として、彼らを教えていた。天坊は、明治前期に作成された「三島郡町村誌」(*注3)を三島郡役所から借りだして生徒たちに筆写させた。大阪府の「町村誌」が戦災で焼失した今、これらは当時の村の状況を知る貴重な史料となっている。また、天坊は茨木にとって極めて重要な二つの歴史に深く関わっている。

 

 一つは、キリシタン遺物の発見である。発見当時の文化的背景をいえば大正期のロマン主義である。竹久夢二の絵画『長崎十二景』(1920年(大正9))などに見られるように、南蛮への憧憬(しょうけい)や安土桃山文化ヘの傾倒、江戸趣味や舞妓への憧れが渾然一体となる、いわば時空を超えたロマン主義であった。茨木のキリシタン遺物は、そうした時代背景のただなかに発見されたのである。

 忍頂寺高等小学校の教員であった藤波大超は、茨木中学の恩師である天坊の示唆をうけ、茨木山間部に残されたキリシタン遺物を探し続け、1920年(大正9)2月17日に東(ひがし)藤次郎の案内で上野マリヤ墓碑を発見する(藤波「吉利支丹遺物発見の動機及び行事について」1923歴史と地理12-3)。そのことを義兄の橋川 正(ただす)に報告し、橋川は京都帝国大学の新村 出(しんむらいずる)ら研究者に調査を依頼した。その間の事情は、高木博志「茨木キリシタン遺物の発見」(2005新修茨木市史年報4)に詳しい。

 キリシタン遺物の保存について、天坊は調査を主導した京都帝大とは意見を異にし、現地保存の重要性を主張する。今では当然の現地保存も、ドイツ史学を基調とする黒板勝美ら東京帝大の単なる考え方とされたのだろうか。ザビエル画像やマリア十五玄義図は現地保存ではなく、しかるべき施設に保存されることになった。

 去年、茨木のキリシタンに関する新しい発見があった。キリシタン遺物の発見は、同時に茨木の隠れ(潜伏)キリシタンの発見とされてきた。しかし最近の研究で、1879年(明治12)に修道士らが千提寺の信徒のもとを尋ねていたことが分かった。フランス人宣教師マラン・プレシのパリ外国宣教会宛書簡にその事実が記されていたのである。(ラモス「茨木・千提寺の隠れキリシタン初発見」2023人文学報120)

 

 戦前期の天坊の事績のもう一つは、1926年(大正15)に太田茶臼山古墳が「継体天皇陵」ではないことを実証したことである。『延喜式』に三嶋藍野陵=「継体陵」は摂津国島上郡にあると記されているにもかかわらず、島下郡にある太田茶臼山古墳が「継体陵」であるとされてきた。天坊は「摂津総持寺々領散在田畠目録」(『歴史地理』47-5)で、古代条里を字地名から復元することで、太田茶臼山古墳が古代以来変わらず島下郡にあったことを論証した。

 この説をうけて、宮内省書陵寮考証官の和田軍一は富田町に住んでいた天坊を訪ねて詳細を確認し、島上郡にある今城塚こそが「継体天皇陵」であるとの確証を得た(『三島藍野陵真偽弁』1929年(昭和4))。それにもかかわらず現在までも、太田茶臼山古墳は「継体天皇陵」であり続けている。とはいえ、今城塚古墳が陵墓指定されなかったために発掘調査が行われ、墳丘の構造や多くの埴輪の調査が可能になり、立派な史跡公園となったのは天皇陵治定(じじょう)の皮肉というべきだろうか。

注1 三島郡役所=1898年(明治31)の郡制施行から1926年(大正15)の郡役所廃止までローズワムの向かいにあった。茨木郡役所とも

  呼ばれた。

注2 天坊幸彦=1871年(明治4)~1955年(昭和30)。東京帝国大学卒業後、1923年(大正12)まで25年間、茨木中学に勤務。大阪府

  史蹟調査委員として『大阪府史跡名勝天然記念物』を執筆。主著に『上代浪華の歴史地理的研究』がある。

注3 三島郡町村誌=明治初年の「皇国地誌」編纂事業の過程で作成された。三島郡全村の「町村誌」が郡役所に保管されていた。

                                                (文責 本会理事 田中)

令和5年度講演会

令和5年度

令和5年5月14日 総会記念講演会 於福祉文化会館

 演題:水旱(すいかん)-水をめぐる茨木の災害史-

 講師:高橋伸拓さん(茨木市立文化財資料館学芸員)

講演要旨

はじめに

 茨木では、茨木川や安威川が市域を南北に縦断するように流れています。河川沿いの村々は、雨期には洪水に悩まされ、日照りの時には旱魃にも苦しめられてきました。農業にとって、水は有りすぎてもなさすぎても、人々の生活に被害を及ぼします。このような天候被害を「水旱(すいかん)」といいます。

 茨木市域には、このような水旱にかかわる近世(江戸時代)の古文書が多く残されています。村の概要を記した村明細帳や年貢の免除や軽減を願いでた古文書です。これらの古文書をひもとくことで、水旱という災害に村々がどのように立ち向かったかを知ることができます。

 

1 水旱の被害と年貢の減免

 まずは、領主に年貢を免除・軽減してもらうことです。その方法には、①引高といって村の税率はそのままだが被災場所のみ年貢を免除してもらう、②破免は旱魃などの年に限り新たに検見(収穫見積り)をしてもらう、③下免といい単純に税率を下げてもらう、④毛替(けがえ)は稲作をすべき田が使えないので非常食としてそこに粟や稗(ひえ)を植えさせてもらう、などがありました。

 

2 村は水旱にどのように対応したのか

 村々は、普段は井堰などから農業用水を田に引き込んでいますが、旱魃の時には川にも水がありません。とくに下流村々では水不足が深刻でした。そのような場合に備えて、さまざまな手段で水を確保していました。

​ 一つは、他村からの貰水(もらいみず)です。橋之内村では井戸水をくみ上げ用水にしたが足りず、西河原村から水をもらったり、茨木村や戸伏村では番水といって順番を決めて水を融通してもらっていました。鮎川村では、井戸水を使うと金気(鉄分)が強く稲が傷んだといいます。

 もう一つは溜池です。市域には多くの池がありました。粟生村はたびたび旱魃に見舞われ、溜池をたくさん造っています。文久3年(1863)には、新池を造りたいと土砂留奉行(河川などの土木工事を担当する)に願いでた史料が残されています。

 貰水や井戸水、溜池などで水の確保に努めるほか、雨乞いをして神仏に祈ることもありました。通常は領主に届け出て、村の氏神などで7日間行われました。水尾村では、文政5年(1822)7月20日から氏神の佐奈部神社で雨乞いをした記録が残されています。

 

3 災害時の費用負担と復興

 水旱に伴う費用は、水害では堤の補修など、旱魃では溜池の普請などがあります。杭木や土を入れる俵などの材料、作業に伴う人足賃が主な費用です。これを村で負担(村賄むらまかない)するか、領主が負担するか、様々なケースがあったようです。また、五社組や門樋組など、用水に関して共通利害のある村々の組合があり、これらが費用を分担することもありました。

 水旱からの復興も、村々にとっては大きな負担になりました。上野村には、元文5年(1740)の水害からどのように堤を修理し、田地を復興したかの記録が残されています。(『上野村砂入絵図』参照)修理費用などは分かりませんが、領主から砂入りのために5年間の年貢控除をうけて復旧し、6年目には起し返し(再開発)分の年貢が納められています。

 

4 なぜ旱魃が起こったのか?

 茨木川や安威川が市域を縦断している茨木市域で、なぜ旱魃が起きているのか。沢良宜浜村など、もともと水害の多い地域でも日照りの時には旱魃が起きています。

村明細帳では、共通して日照りに際して上流村々が下流まで水を流さなかったからだと主張しています。鮎川村では、「少々の日和」でも用水が止まってしまうと嘆いています。貰水や番水という手段も、旱魃の時には有効に働かなかったという人為的な理由があったのではないでしょうか。

『上野村砂入絵図』(旧上野村文書)

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令和4年度講演会

令和4年度

令和4年5月15日 総会記念講演会 於クリエイトセンター

 演題:中川氏とその家臣団

 講師:馬部隆弘さん(大阪大谷大学准教授)

講演要旨

 茨木には糠塚や馬塚など、「白井河原合戦」にちなむ名所・旧跡が残されている。しかし、同時代の史料には郡山で合戦のあったことは記されているが、「白井河原合戦」の言葉はない。茨木市域でこの合戦のストーリーが伝えられてきたことには理由がある。

 豊後岡藩中川家では、天明2年(1782)の清秀の200回忌を機に修史事業が実施された。『諸士系譜』の提出や『中川氏御年譜』の編纂などが行われた。編纂の過程で各家から提出された古文書には、織田信長の時代にさかのぼるものは3点しかなく、「白井河原合戦」のあらすじは江戸時代の戦記物である『陰徳太平記』(注1)に準じていた。これに現地調査を加えるために藩士を茨木に派遣し、逆に住民たちは大名家とのつながりを意識して、中川家の意向を汲んだ伝承を残したのだろう。それゆえにこの合戦の正確な年代、元亀2年(1571)も元亀3年(1572)とされるなど、『中川氏御年譜』には不正確な点も多い。

 中川清秀の出自について、この『御年譜』では生国を摂津とし、また茨木でも中川原村の生まれとする説が流布している。しかし、清秀が生まれたとされる天文11年(1542)の直前までは細川典厩家(注2)に仕える中川原氏がこの地域を支配していて、清秀の先祖が入る余地はない。さらに、江戸時代前期に幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』(寛永20年1643)では生国を山城国としている。

 この修史事業には、中川家の成り立ちを明らかにし、藩祖清秀との関係性によって家臣団の家格秩序を整理するという目的もあった。清秀が「白井河原合戦」の武功により武将としての地位を確立したとして、この合戦に従軍していたかどうかを家格判断の大きなチェックポイントとした。そのために藩士たちの提出した『諸士系譜』には、様々な虚飾が忍び込むことになった。

 『中川氏御年譜』、『諸士系譜』を史実と照合しながら中川家臣団を検討すると、①「白井河原合戦」(元亀2年1571)以前の池田家配下時代の同僚など、②池田時代に家臣となったもの、③「白井河原合戦」直後に家臣となったもの、④荒木村重の反乱(天正6年1578)以降に家臣となったもの、⑤山崎合戦(天正10年1582)頃に家臣となったものなどとなる。

 さらに『諸士系譜』を検討すると、その多くは「白井河原合戦」以降に清秀に仕えていること、茨木を中心に島下郡、豊島郡の武士たちを家臣団に組み入れていることが分かる。中川家臣団は急速に膨張したために、①、②などが重臣となり、③~⑤など新しい家臣をまとめることになる。譜代の家臣は少ないのである。このことが総大将の清秀が先陣を切って戦わざるをえないことになり、結果、賤ヶ岳での戦死につながっていくのではないか。

 もうひとつの特徴は、細川典厩家の家臣であったものが多いこと。これは典厩家の拠点が摂津欠郡(注3)の北部にあって、島下、豊島をも勢力圏としており、清秀は信長の台頭以降勢力を失った典厩家の勢力圏をほぼそっくりその手中に収めた可能性がある。

 荒木村重の反乱以後、清秀が信長や秀吉から受けた優遇の裏には、短期間のうちに家臣団を形成し、小牧長久手合戦で見せたような軍事的動員力に加え、細川典厩家の勢力圏を取り込んだことによる有形無形の影響力があったのではないか。

 

注1 『陰徳太平記』=中国地方の戦国時代を記述した軍記物語。享保2年(1717)出版。

注2 細川典厩家=細川家ナンバー2の家系で細川京兆家を補佐した。

注3 欠郡=かけのこおり=西成・東成・住吉3郡の室町時代の総称。

令和3年度講演会

令和3年度

令和3年10月3日 総会記念講演会 於福祉文化会館

  演題 : 古代平安京から中世京都へ

  講師 : 畠山眞悟氏 (本会副会長)

講演要旨

 近年、平安京と京都について精力的に著作を発表されている新進気鋭の中世史家桃崎有一郎先生は次のように述べておられます。「神社仏閣は“京都らしさ”の最たるものだが、…著名な神社仏閣の大部分は、平安京の中にない。…この<寺が存在しない>ことこそ“平安京らしさ”であって、<京都観光≒寺の拝観>といえるような“京都らしさ”とは完全に矛盾する。

 京都は、平安京という立地にも、平安京の設計思想にも囚われていない。平安京の名前だけが京都と変わったのでもない。平安京が何となく拡大して京都になったのでもない。平安京の周りに、全く異質な都市域が開発されてゆき、不要な部分を切り捨てた古い平安京と接続されて、全体で新しい機能を果たすようになった。その全体が京都だ。…」(『京都の誕生』文春新書2020年4~5頁)。

 では平安京とは何だったのか? その平安京が京都に変貌したのはいつ、なぜ、誰によってか? という疑問がわきます。今回は古代から中世へという大きな時代の移り変わりについて考えながら、平安京がどのように京都へと変貌し、その後どうなっていったのか、近世までの京都のあゆみをたどりました。

 講演の機会を得て気づいたのは道長頼通の頃まではまだ律令国家体制が機能していたが白河天皇以後まったく変質したこと。地方は中央の収奪の対象のみとなり、寺社の強訴が始まり、武威がはびこり、仏罰に恐れおののく奇妙な時代になった。それが中世の始まりということのようです。

 今回の講演では中世日本についてバランス良く記述した史書のような話ではなく、意外性のある興味深そうな話に力点をおきました。そのため中世日本を考える時に絶対にはずせない荘園制や院政については触れていません。

 2021年に中公新書からそのあたりの基本的な本が出ました。9月の発売直後から評判となり増刷された伊藤俊一先生の『荘園』。4月には立命館大学教授美川圭先生の『院政』の増補版も出版されています。講演を聞いて興味を持たれた方に一読されることをお勧めします。

詳しくは、右の  マークを​クリックしてください。​講演内容全文がお読みいただけます。

過去の講演会の紹介

令和元年度

 令和元年5月19日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 武士の発生をどのように考えたらよいか

   講師 : 高橋昌明氏 (神戸大学名誉教授)

 令和元年7月9日 定例講演会 於クリエイトセンター

   演題 : 西の関ヶ原 中川秀成のたたかい

   講師 : 畠山眞悟氏 (本会理事)

平成30年度

 平成30年5月20日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 戦国時代のはじまりと摂津上郡の武士たち

   講師 : 中西裕樹氏 (高槻市教育委員会文化財課)

 平成31年3月2日 定例講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 古代の交通と茨木

   講師 : 高村勇士氏 (茨木市歴史文化財課​発掘調査員)

平成29年度

 平成29年5月14日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 市史編さんから見えてきた茨木の古代

   講師 : 菱田哲郎氏 (京都府立大学教授)

 平成30年3月3日 定例講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 三好長慶と摂津上郡

   講師 : 天野忠幸氏 (天理大学准教授)

平成28年度

 平成28年5月29日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 豊臣秀頼と片桐且元の寺社造営

   講師 : 木村展子氏 (神戸女子大学講師)

 平成29年2月19日 定例講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 戦国武将中川清秀とその時代

   講師 : 畠山眞悟氏 (本会理事)

平成27年度

 平成27年5月10日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 大坂の陣400年を考える ~大坂夏の陣図屏風を手がかりに~

   講師 : 渡辺 武氏 (元大阪城天守閣 館長)

 平成28年2月21日 定例講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 水無瀬離宮(水無瀬殿)の都市史ならびに庭園史的意義

   講師 : 豊田裕章氏 (京都大学人文科学研究所共同研究員)

平成26年度

 平成26年5月25日 総会記念講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 千提寺遺跡群の中近世墓とキリシタン墓

   講師 : 合田幸美氏 (大阪府文化財センター調査課)

 平成27年2月8日 定例講演会 於生涯学習センターきらめき

   演題 : 高山右近と中川清秀

   講師 : 中西裕樹氏 (高槻市立しろあと歴史館)

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