茨木市
文化財愛護会
令和6年度の広場
令和7年1月 投稿
昭和35年『観光いばらき』鳥瞰図絵解き
本会理事 木村威英
描きこまれた「記録と記憶」
この鳥瞰図は昭和35(1960)年に茨木市役所が作成したパンフレット『観光いばらき』に掲載された市域の鳥瞰図です。パンフレットは昭和37(1962)年にも作成され、鳥瞰図が掲載されます。わずか2年の差ですが、この間に新幹線のレールが敷かれ(開通は昭和39年)名神高速道路と茨木インターチェンジもほぼ完成(栗東・尼崎間開通は昭和38年)。昭和35年の鳥瞰図は茨木市域が、市歌に歌われる「産業栄える新興の都」へ変貌を遂げる直前の姿を伝える貴重なものです。
製作の「六曜社」は大正の広重と讃えられた鳥瞰図絵師、吉田初三郎の工房です。初三郎は昭和30年(1955年)に亡くなっていますが、技法や製作方法は受け継がれています。
作画技法は「初三郎式絵図」と呼ばれる独特のもの。大胆にデフォルメを加え、広い範囲を一望できる鳥瞰図を作成しました。この図では茨木市域を詳細に描くと同時に東は京都、西は神戸までが画面に納まります。初三郎は鳥瞰図製作にあたっては該当地の風土や歴史を事前に調べ、さらに現地に入って取材を行いました。『観光いばらき』でも、聞き取り調査によって得られたと思われる知見が描きこまれています。他の資料や記録と重ね、この図の「絵解き」を試みました。

名産品の数々と市域の重要施設
この図には社寺や古墳などがその特徴を捉えて描かれていますが、多くの名産品も絵入りで紹介されています。都市化によって姿を消したものがほとんどですが、現在もその伝統を伝えるものもあります。また、当時の重要施設として描かれたものにも歴史を刻んで現在に至るもの、姿を消したものがあり、茨木市の歴史を知る貴重な資料となっています。











『観光いばらき』鳥瞰図の元データは、新修茨木市史第三巻付図3として出版されたものです。茨木市文化財愛護会「50年のあゆみ」の表紙絵に使用した画像を拡大し、第42回「郷土民俗資料展」で解説を加えてパネル展示しました。
昭和24年に廃川となった茨木川が実際は「川」の機能を残していることなどもわかります。来場者から「記録には無くなったと書いてあるのに、子どもの頃、川で遊んだ思い出があって不思議だった」という声を聞きました。
また、旧桑原紡績所の上流に描かれているのは
車作水力発電所ではないか?
と指摘をいただくなど、読み取れていない
情報もまだ多く残っているようです。


参考文献・引用元
新修茨木市史 第3巻「通史Ⅲ」
同 第6巻「史料編 近現代」
同「図説地理 近現代の茨木」
同 資料集2「村誌 Ⅱ」
同 資料集16「新聞にみる茨木の近代Ⅳ」
同 資料集19「新聞にみる茨木の近代Ⅴ」
〇独活・寒天・藍野塾
加藤彌三一「太田誌」(第5部) うど小屋の写真は北川都代子さんより提供
〇ケシ
二反長半「戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯」
倉橋正直「日本の阿片王 二反長音蔵とその時代」
〇京阪神急行京都線
京阪電気鉄道「京阪百年のあゆみ」
◎茨木カンツリー倶楽部、日本たばこ産業株式会社、京阪グループ、茨木市観光協会、茨木市立郡山小学校などホームページからも情報を得ています。
令和6年12月 投稿
第42回郷土民俗資料展 展示パネル紹介

文明開化から町制施行まで
明治6年(1873)に計画された鉄道路線は現在の経路とは違っていました。作付制限や神社の樹木伐採、墓地の移転など、この路線変更に翻弄された沿線住民に注目しました。
また、明治31年(1898)の郡制施行によって三島郡の「郡都」となった茨木町をとりあげました。

田園都市構想と大阪万博
戦争で疲弊した日本が新しく生まれ変わろうとする機運のなか、昭和23年(1948)茨木市が誕生。全国的な地方財政危機のうねりに飲み込まれながらも、昭和34年(1959)茨木市基本計画が発刊され、財政危機を乗り越え、田園都市茨木の実現にまい進した姿を見ました。

『観光いばらき』鳥瞰図
鳥瞰図作家吉田初三郎の工房六曜社の作品をとおして、1960年代の茨木を「鳥瞰」しました。京都や大阪までも描き込まれた空間把握や大胆なデフォルメに特徴があり、「初三郎式絵図」ともいわれています。
この図は、現地調査をもとに市街地や公共施設、観光地や地域ごとの名産品までが手に取るように描かれていますが、説明はついていません。今回の展示ではこれらの絵柄の絵解きを試みました。
*このパネルの詳細は、制作者が別途「歴史の広場」に掲載します。

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近代茨木の「戦争に関する記念碑(忠魂碑など)」
市内には多くの戦争記念碑が残されています。戊辰戦争、西南戦争、日清日露戦争、第一次大戦、太平洋戦争と日本の近代は戦争の歴史でもあります。これらは全国に1万5千基とも2万5千基ともいわれるほど多く残されています。市内にも16基の忠魂碑が残されています。
忠魂碑は戦前、天皇への忠義のために死んだ兵士の魂を英霊として称えたもので、反戦意識の高まりから1960年代までに撤去されたものも多いといいます。忠魂碑が地域社会のなかで、戦意高揚に利用された史実を後世に伝えるためにも、戦争の歴史遺産として保存する必要があります。
*このパネルの詳細は、制作者中井晃氏による
令和6年12月投稿
をご覧ください。

江州音頭と古い蓄音機
盆踊りは明治初期には風紀上、規制の対象となった時期もありましたが、明治以降は地域の結束を高める行事として行われ、今でも夏の地域行事として実施されています。
盆踊りの「音頭」には、北摂地域では「江 州音頭」や「河内音頭」、茨木の山間部では「浄瑠璃音頭」の地域もあります。「~音頭」の調べは、昭和初期のラジオや蓄音機の普及にともない、小唄勝太郎の「東京音頭」など全国に流布したものもありました。

茨木初の浪速少年院
大正12(1923)年、少年法・矯正院法が施行され、それにともない東京府と 大阪府に全国で最初の少年院が設置されました。その一つが浪速少年院です。なぜ、茨木の郡山に設置されたのか、そこにはいくつかの条件がありました。
近代国家の司法行政の一環を担う施設の意義から、当時の更生保護の考え方、今に至る経緯を『矯正院から少年院へ 浪速五十年の歩み』『麗日 浪速少年院創立100周年記念誌』からみてみました。
また、会員から提供された資料も展示しました。

近代茨木の学校教育
復員後、玉島小学校で教鞭をとった教師の手記『梅桜の思い出』を題材に、生活から発見する学びを大切にする新教育運動に取り組み、子どもたちの元気な活動の様子を見つめる一人の教師の眼差しを描きました。
また、明治21年(1888)の島下郡21ヶ村組合立高等小学校に始まる養精中学校の歴史を、明治・大正・昭和と移り変わる学校教育のあり方の中でまとめました。
