茨木市
文化財愛護会
令和7年度の広場
令和8年3月 投稿
小栗判官道と小栗判官伝承
本会副会長 畠山 眞悟
1 茨木の小栗判官伝承

茨木には、倍賀の春日神社から南へ延びる道を小栗判官が土車に乗せられて通ったという伝承がある。
説経節「をぐり」では、土車に乗せられた小栗判官は京都東寺から鳥羽、山崎を経て摂津国に入り、広瀬、芥川、太田の宿をすぎ、中島、三宝寺の渡りを経て天王寺へ向かう。茨木の判官道は、この太田から中島へ至る道筋ということになる。
倍賀春日神社では、松井の霊水(注1左図●)に小栗が浴し、あらたかな霊験を得たという。そこから南へ進み、奈良の袖の森(注2左図●)あたりから高槻街道、亀岡街道へ。吹田市岸部の亀岡街道に面する名次神社では、土車を引く綱が切れたので村人が縄をなってつないだ「縄つけ」から「なつけ」という地名が生まれたと伝え、小栗判官にまつわる伝承が道行きのコースを具体化させている。
2 説経節
説経節は中世後期から江戸享保期まで人気を博し、かたちを変えながら演じられた「語りもの芸能」である。仏教の教えを説く「説教」が民衆芸能化し、大道芸・門付け芸としても親しまれた。説経最古の正本でも江戸寛永期(1630年代)で中世の説経の実態は不明ながらも(注3)神仏霊験譚という体裁や語り口からは近世以前の古色を豊かに残している。なかでも「をぐり」すなわち小栗判官の物語はスケールの大きさと劇的展開から人気が高い。


倍賀春日神社

春日神社より南を望む
3 小栗判官物語のあらすじと特徴
小栗は二条大納言兼家の嫡子だったが、深泥池の大蛇の化身と契ったため常陸国へ流され、武蔵相模の豪族横山氏の美しい娘、照手姫への強引な婿入りによって横山氏により十人の家来と共に毒殺される。横山は照手姫も殺そうとする。彼女は家来により命を救われるものの、人買いに売られ売られて美濃国青墓の遊女屋で水仕(下女)として奉公することになる。 土葬されていた小栗塚から蘇った小栗は遊行上人から「餓鬼阿弥陀仏」の名を授けられる。「一引き引けば千僧供養、二引き引けば万僧供養」と胸札に書いてもらい、土車に乗せられ多くの人に引かれて熊野本宮を目指し、湯の峰の湯に四十九日入り元の身体に蘇る。 小栗は京都に戻って栄達し、照手姫とも再会して常陸国で幸せに暮らす。 京都の貴顕の生まれの小栗判官と妻の照手姫が、零落苦難の末に復活し幸福になるという典型的な貴種流離譚である。死後に小栗は美濃国安八郡墨俣垂井の正八幡宮の荒人神となり照手姫も結神社の契り結びの神となるので神の本地譚という性格も持っている。

吹田市岸部 名次神社
4 実在の人物と重なる物語
小栗判官を茨城県真壁郡協和町(注4)の小栗城主14代小栗孫次郎満重の子、小栗助重とする伝承がある。これは物語が実在の人物を重ねることによって作られたことを示していると思われる。協和町の伝承では、応永30(1423)年足利持氏に敗れ小栗城を失った小栗満重一行が応永33年相模国横山氏館での宴席で毒酒により殺害吹田市岸部 名次神社 され、遊行14代他阿太空上人により埋葬された。子の助重は嘉吉元(1441)年の結城合戦で活躍し小栗領を回復した。この助重が小栗判官とされる。のち小栗助重は享徳4(1455)年足利成氏に敗れ小栗城は落城し小栗氏は滅亡したという。また助重の室、照手姫は太空上人に帰依して剃髪し長照比丘尼と号して藤沢清浄光寺の末寺長生院(当時は閻魔堂)の傍らに草庵を結び小栗主従の菩提をとむらったという。 小栗伝説の最古のものは、鎌倉公方足利氏を中心とする関東の動静を記述した歴史書『鎌倉大草紙』にある。この本は文明11(1479)年以後に成立したらしいが、その応永30(1423)年の項に上杉禅秀に味方して足利持氏と戦い敗れた小栗満重の子、助重が盗賊に毒入りの酒を飲まされ殺されかけたところを遊女照姫に救われ、荒馬の鹿毛に乗って三河国へ逃げたという記述がある。これが小栗判官伝説の起りらしい。
5 道行きの地名から

小栗は土車に乗せられて引かれていくのだが、説経節にはその道行きが名所尽くしのように詳しく述べられている。たとえば、近江国をみると、美濃国境から長競、二本杉、寝物語、高宮川原、武佐の宿、鏡の宿、草津の宿、野路、篠原、瀬田の唐橋、石山寺、馬場、松本、大津の関寺、逢坂の関となっている。
岩佐又兵衛「をぐり(小栗判官絵巻)」(三の丸尚蔵館所蔵)より瀬田の唐橋(部分)
車の上、褐色のミイラのように描かれるのが小栗判官。
これをみると、鏡という中世の宿場と、武佐や草津という近世の宿場が存在していることに気づく。また野路、篠原は古代から中世にかけての駅家や宿場である。京都東寺からは西国街道ではなく鳥羽へ進み、山崎に入っている。すると久我畷という中世の道を通ったことになる。また太田宿も近世にはなく中世の宿である。すなわち地名に中世のものと近世のものが混在している。これは小栗判官の説経が中世から近世への移行期に次第に纏まっていったことを示しているのではないだろうか。
茨木の小栗判官道の伝承にも、渡り歩く説経節の語り手と、この地の聞き手が共有した物語の世界が投影されていると考えられる。
注1 松井の霊水:明治13年の倍賀村村誌に「冷泉松井ノ水」の記事がある。
注2 袖の森:小字名は袖之森。
注3 中世の説経節語りは時宗の徒が圧倒的に多かったようである。
注4 真壁郡協和町:現在は筑西市。

茨木東ロータリークラブの設置した判官道を示すプレート
令和8年2月 投稿
茨木の祭り〜オトウとヒアゲ〜
本会理事 中井 晃
令和7年度、第43回民俗資料展のテーマが「茨木のまつり」となったのを機会に、資料を集めてきた市域各地の祭りの姿をまとめ、パネル展示を行った。特徴的な神事である「オトウ」と「ヒアゲ」について、レポートのかたちでも報告をまとめたいと思う。
A「オトウ」と呼ばれる祭り


三角形のモッソ(左)と、鏡餅(右)
宝珠形の白蒸し、オタイショウ(枇杷の葉でくるみ水引でくくる例もある)
茨木市北部の山間部で行われている行事で、神前に供えられるメインの神饌は独特で、もち米を蒸した白蒸しが中心となる。
個人の家や地域の垣内の家が当屋(とうや)となって白蒸しやその他の神饌を準備して奉納する。当屋は輪番で儀礼を行い、神社の管理や祭の経費負担などを行う。戦前まではオトウ田と呼ばれる神饌のための田んぼが存在していた。



●皇大神宮(車作)A①
旧暦一月九日(新暦ニ月十一日の建国記念日)に行われる。
神饌は三角の木枠で固めた白蒸し二個と大根、人参、ごぼう、めざし、鏡餅等である。前日の夕刻、鳥居から参道にかけて提燈立てがなされ、翌日の朝、神主が現れ宮総代の挨拶とともに神事が始まり各団体代表者の玉串奉奠で終了する。

●大歳神社(大岩)A②
原則として旧暦の一月十三日とし、年によって異なるが、新暦の二月二十日前後の日曜日に行われる。提灯を参道や階段に沢山掲げることから御燈祭りと呼ばれている。地区には六つの垣内(=株)があり一年交代で祭りの担当をする。祭りの当日、垣内の会長宅に集まりお供えの準備を行う。
メインの神饌はビワの葉で包み紅白の水引でくくった白蒸しである。その横に黒文字(クロモジ)の木で作った約30㎝の箸と楊枝10組を添える。他にリンゴ、ミカン、人参、大根白大豆、スルメ、昆布等が用意される。


神饌の準備が終了すると垣内の会長がユウダスキをかけ、新芽の梅の枝をもって神社へ向かう。
●諏訪神社(生保)A③
二月十一日に行われ、当屋の家に前と後の当屋が集まり、神饌の準備を行う。
メインの神饌はオタイショウ(お大将)と言う宝珠型の大きな白蒸し一個、ケンゾクと言われる小さな宝珠型の白蒸し九個、「マンジュウ」あるいは「カラス」と言う饅頭型の小さな白蒸し二個である。
大きな白蒸しには太い大きな箸が添えられる。その他には大根、人参、栗、かやの実、ミカン等を用意する。
オタイショウを本殿の中央に、その左右にケンゾクを二個ずつ四組置く。更に外塀の屋根の上にカンノンサン(観音さん)と称して観音さんのためにもうひとつ置く。
カラスはカラス勧請を伝承して本殿の貫(ぬき)の下に供えられる。




本殿の貫の下にカラス
オタイショウと添えられた太い箸
外塀の屋根に置かれたカンノンサン
●道祖神社(豊川)A④
十二月十日、サイノトウと言う大祭があり、神饌は六軒の氏子全員が宵宮に当屋に集まり準備する。当屋の主人は一年間穢れを忌んで身をつつしみ、獣の肉を食べる事も禁じられていた。メインの神饌は餅米一升の白むしを丸めた直径約十五センチの日型の日輪と、直径約二十センチの月型の月輪でそれぞれお膳に盛る。
更にお馬の豆(大豆二合を煮る)、紅白の水引を掛けた焼き鯛、ごりん(茹でて、すりつぶした小豆と里芋を混ぜたもの)、うすあげ、葱、大根の味噌汁、人参の千切り、蛸の足二本、ミカン等多彩である。
月型、日型のお供えはモッソと呼ばれもち米を蒸して練り球形に固めたもの。翌朝にこの表面にひび割れが出来ると、その年は縁起が悪いと言っていやがった。



一の膳
二の膳










市域のオトウ神事は大岩、生保、車作などが知られ、もち米を蒸して三角形、宝珠形、球形、半月形に整えたものが神饌の中心となる。三角形のモッソは物相が原形。型枠に押しこみ、その形を作るところからの名と考えられる。
餅米を蒸して山盛りにしたものを「強飯(こわいい)」という。平安時代の儀式で、いくつかの強飯をセットにした屯食を並べる作法があったようだ。摂関家の庄園だった福井庄から屯食を三具(3セット)納した記録が残されている。(「台記別記」巻 7)
強飯を用いた神事や修験道の儀式は日本各地に残されている。
日光輪王寺「「強飯頂戴の儀」
B「ヒアゲ」と八朔・二百十日の神事
ヒアゲは茨木市域の祭礼行事としては最も数多く行われている行事である。ヒアゲが行われる時期は夏祭りと秋祭りが多いがほぼ通年に渡っている。 ヒアゲ(献灯)には大きく二つの形式がある。
そのひとつの形式は氏子が提灯を持って会館やお旅所等の特定の場所に集まり提灯に火を入れた後、行列を組んで神社に練り込む形式である。使用する提灯は通常のもの以外に木組みに半紙を貼り、側面に「御神燈」「今月今日」「○○氏(苗字)」「氏子中」「五穀豊穣」等を筆書きされた箱型や扇型がある。


もうひとつの形式は八朔(新暦 の九月一日)の頃に農耕儀礼の性格をもった神事で行われるもの。この頃は稲が実り始まる時期で、台風シーズンからの風除けの祈願、豊穣祈願の神事である。立春から二百二十日は九月一日前後に当たり、二百燈と呼ばれ二百のロウソクを神前に献じる。

●佐奈部神社(稲葉町)B①
佐奈部神社では立春から二百二十日目の次の土日いずれかに二百燈祭を行う。昔から二百二十日は三代厄日とされ、台風や洪水にあわず、秋の稔りを祈願する祭りである。祝詞奏上や神楽が奉納され、玉串奉奠の後、本殿前に並べられた蝋燭に火が灯される。
蝋燭台二台に夫々五十本、合わせて百本灯され、半分燃やされると新しいものと交換し、合計二百本灯される。


●春日神社(奈良)B②
毎年八朔の新暦八月三十一日の夕刻、奈良の氏神である春日神社でオヒャクトウ(御百燈)のヒアゲが行われる。以前は本殿前の宝珠型の台の五十の燈明皿に油と灯心を入れたものに火を灯していたが今はLED電気に変更。
宝珠型の台は二台あり、合計百の燈明を神前に献燈する。他の神事は茨木神社の宮司が執り行うがヒアゲは関与しない。


●春日神社(下穂積)B③
ヒアゲは毎年九月一日に行われる。夕刻、下穂積の改良区会館に各家から提灯を持って集合する。提灯は以前は背丈程の竹に取付け、上部に縁起の良い南天やバランの枝を刺していたが竹が入手しにくい事から提灯を手で持つ様になった。提灯の各面には「御神燈」「五穀豊穣」「○○氏(苗字を書く)」「今月今日」等が書かれている。暗くなった頃、会館を出発し神社に向かう。行列の先頭は縦七十センチ、横五十センチ程の大型提灯が進む。この提灯は五メートル程の竹に刺し、上部に南天の枝が飾られており、各面には「御神燈」「五穀豊穣」「九月一日」「下穂積実行組合」と書かれている。神社に到着すると拝殿の周りを時計回りに三周して解散となる。


●天満宮(上音羽)B④ 毎年七月二十日、天満宮の夏祭りとしてヒアゲが行われる。秋祭りでは宮司が来て神事を行うが、ヒアゲは自治会長や宮総代、青年会が中心に行なわれる。各家から上音羽自治会館に提灯を持参して集まる。提灯に火を入れた後、伊勢音頭をテープで流し会館の庭を三周し、その後行列を組んで神社へ向かう。
神社へは昔から伊勢音頭を歌いながら行くことになっている。参道の階段の上にはダシと呼ばれる木製の屋根付きの門が設置されており、「御神燈」「當村子供中」と記された提灯が五張吊りされる。神社でも社殿の周りを三周した後、所定の場所に提灯を立てる。



●八所神社(忍頂寺)B⑤
ヒアゲは七月十五日の夏祭りに行われる。各家から提灯を持って忍頂寺の横に鎮座する八所神社に集まり、提灯に火を入れた後、山頂の宝池寺に向かう。修験道の行者が法螺貝を吹いて先導する年もあった。
宝池寺に着くと、寺の奥にある竜王池を三周し拝殿前に提灯を立てる。その後行者による護摩炊きが行われる。




●佐和良義神(美沢町)B⑥
佐和良義神社は元茨木川堤防際にあり延喜式内社の一つである。現在は沢良宜東、西、浜一、浜三の氏神とし、三月と十月に蔵垣内の井於神社の宮司により神事が斎行される。昔は神輿があったが茨木川の洪水で流され、神輿巡行は無い。大太鼓も打ち鳴らしていたが、近隣の住民から騒音のクレームがあり今では行われていない。
秋祭りの神事としては祝詞奏上、玉串奉奠、巫女による神楽が斎行される。


●新屋坐天照御魂神社
(福井神社)B⑦
延喜式内社の古社で西福井に鎮座する。中川清秀の妻が夫の遺志をつぎ天正十二年に社殿造営と伝わる。
夕方、各自治会が保管している提灯を神社へ持参し暗くなる頃点火する。
ヒアゲの提灯の位置は地区ごとに場所が決められており、中河原が拝殿の正面中央とされている。これは中河原出身であると言われている中川清秀が、新屋神社を崇敬し、社殿の造営などに尽力したためであるという。



●井於神社(藏垣内)B⑧
井於神社は宇野辺、丑寅、蔵垣内、乙辻、太中、小坪井、鶴野の七地区の氏神でその歴史は古く、延喜式内社でもある。十月十九日の秋祭りには各地が提灯、幟、吹き流しを境内に飾り付け、拝殿では神楽が奉納される。


茨木市内には式内社十社十三座を含めて約八十社の神社が鎮座し、各神社では多種多様な祭りが年一回から数回行われている。茨木神社のように多くの人が集まる豪華な祭りもあれば、地元の人達の手によって行われる村祭りもある。村祭りにもそれぞれに習わしがあり、神饌や作法に地域の歴史に基づく個性が見られる。民俗的にも貴重な茨木の文化であると考えるが、簡素化されたり、途絶えようとしているところも多い。文化財保護の観点からも継続伝承を願うところである。
参考文献(参考資料)
「北大阪のまつり」(2017年秋季特別展図録)吹田市立博物館 2017年
「茨木市まつりDVD」吹田市立博物館作製 2017年
「茨木市における八朔と二百十日・二百二十日の行事とヒアゲについて」
「茨木市文化財資料館 館報第3号」茨木市文化財資料館発行 吉川なつこ 2018年
「茨木のまつりーヒアゲとオトウを中心にー」
茨木市立文化財資料館郷土史教室講演レジメ 山田なつこ 2018年
「新修茨木市史 第十巻 別編・民俗」茨木市 2005年