茨木市
文化財愛護会
史跡見学会
近畿圏の名勝や史跡を巡り、それぞれの地域の神社仏閣や旧跡を訪ねてその歴史を学ぶとともに、会員の親睦を図っています。
令和5(2023)年度
6月22日
中世自由都市堺の歴史を訪ねる
案内人 後藤保男氏(本会会長)
「堺」という地名は、摂津・河内・和泉の三国の境にあることからできた…言われてみればそんな場所。環濠に守られた自由都市「堺」のすぐ側には古墳群も存在。様々な時代の記憶を残す町を歩きました。
前日の天気予報では一日中雨の予報。当日茨木の家を出るときも豪雨。これに気力がそがれた方が多かったか? 集合時刻に集まったのは6人でした。
畑仕事用の長靴でやってきた参加者。堺ではほとんど雨は降らず、やがて晴れ間も…この選択は大失敗。
河口慧海の像
「七道」駅前で私たちを迎えてくれた河口慧海像。漢籍を学び英語を学び、学費困窮に苦しみながらも学びへの意欲は消えなかった。梵語、チベット語の仏典を求めてチベットへ。この像は、鎖国状態のチベットを目指しヒマラヤを越えて行かれる姿です。
駅前には「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑も
作った鉄砲はしっかり性能試験し、射手の訓練も行っていたらしい。堺の鉄砲作りは鉄砲を使いこなす技術までも含むものだったことが伝わってくる。
鉄砲作りは現在の刃物、自転車など堺の産業の礎ともなりました。
広い道路は環濠の跡地。
高速道路が走っているコースも環濠の場所に重なっていました。
一行が目指しているのは河口慧海の生家の場所。
普通の住宅街の中。家との間。
案内人がいなかったら見逃してしまうこと必至。ブロック塀のすき間に「河口慧海生家の跡」碑がありました。
清学院
堺環濠都市区域の北端に位置する「清学院」ここは、「山伏清学院」という修験道の寺院としての歴史を刻み、江戸時代後期から明治にかけては「清学堂」の名で寺子屋にも。慧海が学んだのは寺子屋清学堂。
日本人として初めてヒマラヤ山脈を越えた慧海が最初に学んだ場所は山伏養成所の伝統を継ぐところだった…なんだか納得してしまう。
井上関右衛門家
この巨大な屋敷は「鉄砲鍛冶屋敷」江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷として唯一現存している井上関右衛門家。2018年の台風21号での損傷は修復され歴史を伝える堺市の施設として公開される日も近いようです。
江戸期の堺はこういう屋敷が一つや二つでは無かった…。
江戸時代前期の町屋「山口家住宅」へ
正面も立派なお屋敷ですが、奥行きがすごい。この時代の町屋が残っている例は全国でも数少ないそうです。
次の訪問地は浄土真宗堺別院。
道すがらも、歴史ある寺院、記念碑その他いっぱい。堺別院には明治以降の堺の歴史も刻まれていました。「蓮如上人御旧跡」にして「明治天皇聖趾」
「明治天皇聖趾」碑の側面には「堺縣廳址」の文字
明治14年まで、「堺県」が存在したことを知りました。しかもこの県は明治9年に現在の奈良県全域も併合。和泉・河内・大和が一つの県になっていました。
与謝野晶子の句碑
劫初より作りいとなむ殿堂に
われも黄金の釘ひとつ打つ
妙国寺
下は、近くの道標。左大坂・右そてつ…このそてつが、妙国寺の霊木。堺事件で土佐藩士が切腹したのも妙国寺。
お寺の方から、織田信長、徳川家康、そして三好義賢…時代作った武将たちとこの寺との関わりも伺いました。建物は戦後復興されたものですが、多くの宝物が残り、ゆっくり拝見させていただいています。
土佐十一烈士の墓のあるお寺は幼稚園を併設、声をかけて鍵を開けてもらいました。烈士墓碑の横、一段下にあるのは、12番目に切腹する順だった橋詰愛平の墓碑。彼は生涯を切腹した11人の墓の、墓守として送っています。
ザビエル公園「聖フランシスコザビエルの碑」
ここはザビエルが泊まった豪商日比屋了慶の屋敷跡。
中世の堺はこの辺りに海岸線がありました。
公園の遊具も南蛮船をかたどったもの。
菅原神社
鉄砲鍛冶が寄進したという立派な楼門の側にある「奇縁氷人石」尋ね人や迷子捜しの役割を果たしたそうです。
開口神社
住吉大社とも関係が深い多くの伝承が残る神社。行基が境内に大念仏寺を建立、ここは「大寺」と呼ばれ江戸時代には堺の町政を担う総会所もありました。神仏分離の際にも町の有力者が買い取って三重塔は守られましたが、堺大空襲で焼失。
今もバス停に「大寺」の名が残っていました。
昼食の後、堺市役所21階の展望ロビーへ
大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)も眼下に。北にはあべのハルカス、南には遠く大阪湾の海。360度の天望を満喫。